こんにちは 僕は 大嶋 健 という おっさんです。

 

もう 58歳の オヤジで 一卵性双生児の 兄です。

 

弟は康といい、あわせて 健康です。めちゃくちゃ 仲良し 兄弟です。

 

人間 最後は 心が 幸せを 決めます。

 

病気 お金 別れなど 人生で 行き詰ることが たくさんあります。

 

途方にくれた時 最後に 自分を支えてくれるのは

 

お金では ありません。

 

僕にとっては 家族や先生が言った言葉や

 

そこから 得られた気づきでした。

 

僕の人生で 気がついた 幸せへの 気づきで

 

一人でも 元気を得ることができればと思っています。

 

よろしく お願いいたします。

 

この部屋では 僕がメインとなって 

 

『 悩んでいる皆さんの お役に立ちそうな

 

 考え方を 発信していきたい 』

 

と考えています。

 

約60年生きてきた中で それなりに 気がついた

 

考え方が いろいろ あったからです。

 

その第一弾として この度は 僕の出版した

 

本 の紹介をさせて 頂きます。

 

もう二年前に 五冊のシリーズ本として

 

出版した この本は そういった 

 

気づきがつまった 本だからです。

 

この 五冊を 書こうと思ったきっかけは

 

医者である弟が クリニックに訪れる患者さんに

 

僕の話を よくすると 聞いたからでした。

 

弟は内科医なのですが 心の乱れが

 

病気と 密接に関係していると考え

 

患者さんの悩みを よく聞いているのです。

 

その治療の一環として 

 

心を大きく乱したけれども 立ち直った

 

僕の話をしているのです。

 

なぜかと言うと 

 

僕は幼年期に かなりひどい いじめを受け

 

心のバランスを 失った時期があったからです。

 

その話を聞いた僕は

 

何か僕でも 世の中に 役に立てることがあるのではないかと

 

考えるようになりました。

 

そこで どのようにして 立ち直っていったかを

 

書いてみることにしたのです。

 

まさか 五冊になるとは 思ってもみませんでした。

 

ただ 2年前に 出版したものの

 

当然ながら 無名なので ほとんど 知られていません。

 

そういう世界なのだから

 

仕方がないのかな~ とも 思っていました。

 

しかし ニュースで 繰り返される

 

悲しい事件を 見ているうち

 

やはり もっと読んでもらいたいなと

 

また 最近 思うようになったのです。

 

どれも 心のバランスを 崩してしまったために

 

引き起こされている事件だからです。

  

人間は 物事が 順調にいっている時には

 

明るく 正しい心を 持ち続けることは 容易です。

 

しかし なかなか解決しない 問題が発生すると

 

いとも簡単に その心から

 

目を背けてしまう生き物のようです。

 

ですから 順調な時の その人しか

 

知らない人達は 声を そろえて こう言います。

 

「信じられない。どうして あの人が!」

 

犯人達が 悲しく 自暴自棄になっている時

 

「こんなふうに 考えてみると 楽になっていけるよと」

 

と 相談にのってあげる 友達がいたら

 

もしかして 事件を 防げたかもしれないなと 感じました。

 

そこで 悩んでいる人達が 希望を見出す

 

ヒントになれればと思い ホームページを つくってみました。

 

ただ アナログ人間なので ものすごく

 

わかりやすいという 

 

jimdoの ホームページ作成ソフトでさえ

 

四苦八苦して しているしまつです。

 

少しずつ 慣れていこうと思っていますので

 

読みにくい点が あるかと思いますが 

 

よろしく お願いいたします。

 

 今回ご紹介させていただくのは

 

『 楽になりたいなら 生きていけ 』

 

という タイトルの本です。

 

この本は 2年前 横書きで

 

5冊の シリーズものとして 出版しました。

 

しかし 初めての本なのに

 

続けざま5冊も 書いたため

 

読み直すと 至らぬ点が 目立ち

 

5冊とも 手直しするために

 

出版を その後 取りやめていました。

 

それからというもの 手直しする時間もなく

 

正直 疲れてしまったため そのままになっていました。

 

しかし また気持ちが 原点に戻ったことで

 

手直しを加え 今度は 縦書きとして

 

出版することにしました。

 

それでは この本の 簡単な紹介をさせて頂きます。

こんな 内容の本です。


楽になりたい 生きていけ シリーズは、

 

上巻  中巻① 中巻② 

下巻① 下巻② 計5巻

 

からなっています。

 

長いですが、こんな話です。

 

 

 

時は、昭和30年代後半


今から50年前。 舞台は 新潟県の 田舎町。

 

主人公は 7歳の小学生。 

突如始まる 理不尽ないじめ。

 

原因は 


生まれて間もなく負った

顔の大ヤケド。

 

ちなみに 50年たって


ほとんど めだたなくなった跡が 上の 写真です。

 

お見苦しい おっさんの 横顔で すみません。


ちゃんとした 写真なかったので。

 

ミミズが 人間の

ふりをしている。


その証拠に 顔に

大きな ミミズがいる。


おまえは ミミズと

さげすまれ

 

まだ 7年しか 

生きていないのに

死にたいと 考える毎日。

 

でも やっぱり生きていたい。

 

ところが ますます ひどくなるいじめ。

 

殴られる 蹴られる。


石や松ぼっくりを 投げつけられる。


物は隠され 捨てられる。

 

ノート全ページに


早く死ね! 汚い! くさい! 


世の中に 必要なし! などと

 

書き込まれる。

 

顔に ウンコを 塗ったくられる。


つばを はきかけられ 放尿までされる。

 

虫や土を 食べさせられる。


金や物を 家から 持って来いと 脅される。

 

7歳の 心は 悲鳴を あげていました。

 

日ごと崩れていく 心のバランス。

 

ついに 生きていても 意味がないと 思うように。

 

死にたいから 死のうへと 一段 上がってしまった 死の階段。 

 

死ぬために 何度も登った 高木のてっぺん。


あとは ちょっとだけ 手足を 離すだけ。

 

しかし 最後の最後に 僕を踏ん張らせた 1つの思い。

 

「 やっぱり 家族といたい。

僕は 家族が 大好き 」

 

そして その時 聞こえてくる 家族が 呼ぶ声

 

「 帰っといで 

みんな 待ってるよ 」

 

そんな家族との毎日が 僕に与えた 数々の気づき。

 

この気づきは 真っ暗な心に 


元気を与え続けてくれた 心の処方箋。

 

おかげで 少しずつ たくましくなり


ついに乗り切った 2年間のいじめ。

 

この気づき 子供の気づきだからと 侮るなかれ。

 

気づきの質に 年齢は 関係なし なのです。

 

その証拠に その後の人生 難しい局面で


応援してくれたのは これらの気づきの数々。 

 

まさに人生の宝物。

 

あれから50年 皆さんに 叫びたい。

 

「 生きていて良かった。 


こんなに人生を 楽しめてきたし 


これからも 楽しんでいきたい 」

 

「 支えて下さった人達の


 おかげです。 ありがとう 」

 

今 とても苦しくて


命を 粗末にしようとしている人がいたら


大声で 叫びたい。

 

「 僕は 生きてきたからこそ

 楽になったんだよ。

 楽になりたいなら 生きていけ 」

 

そして すべての 皆さんに 是非 伝えたい。

 

弱虫だった 僕の心を 励まし


強くしていってくれた 気づきの 数々を。

 

暗かった 僕の心を 明るくしてくれた


気づきの 数々を。

 

こんな思いで 綴った本です。

 

気づきの過程を 正直に 書いてあります。

 

ですから とても 長くなってしまったのです。

 

けっして すぐれた 子供だったから


気づいたのではないことが

 

お分かりに なると思います。

 

皆様の心に 栄養を与える


話や気づきが 1つでも あればと 願っております。

 

顔に ヤケドを 負っている以上


顔に対する嫌がらせは 

 

どこかで 経験しなくては


ならないものだったと 思います。

 

ただ 最初に受けた 嫌がらせが 


あまりに ひどいものであったため

 

7歳の心は つぶれてしまいそうに


なってしまったのです。

 

しかし この2年以外は 顔のヤケドが 原因で 

 

不快な思いをしたことは ほとんど ありませんでした。

 

だから 人生で起こりえる 顔への 嫌がらせ すべてを

 

この2年間で 消化してしまったのだなと 思っています。

 

7~8歳の少年が 気づいたものですが 我ながら

 

気づきとは 年齢に 関係のないものだと 驚かされています。

 

現在は 


キンドル(Amazon)と

BCCKSの 書店で 

上巻 中巻① が 出版されています。

各巻 510円です。

キンドル(Amazon) 上巻

キンドル(Amazon) 中巻①

  

親子の確執 終了

いや~ ものっすごく 久しぶりに

 

ブログを 見てみました。

 

すると ちぇさんから 

メッセージが入っていました。ありがとうございます。

 

時間があったら また 書いて下さいね。

 

楽しみにしています。

 

 

 

いつも いきあたりばったりで 打っているので 前回何を思い出して書いていたのかすら 忘れていました。

 

そこで 前回の話を 思い出しながら 翔平君との 話に区切りをつけたいと思います。

 

では 始めます。

 

 

 

翔平君は 母親との関係に悩んでいました。

 

「自分を傷つける言葉を言ったけれども あの時は 母もいっぱいいっぱいだったんだと 先生と話していて 分かりました。そして母も謝ってくれました。それなのに どうしても許せないんです。どうしても 言い合うと あの時の言葉が頭に蘇ってきてしまうんです。どうすれば忘れられるのか分からない。俺は一生こうなんですかね。諦めるしかないんですかね」

 

「そうだよな 忘れられないんだよな。俺もいじめを謝られたけど いじめを忘れることはできなかったよ。相手は 一言謝って終わってしまう。でも 俺はそう簡単に終われなかった。自分でも 自分が壊れてしまっていることに愕然としたよ。心の傷は 体の傷とは違うんだよね」

 

「先生はどうやって 立ち直ったんですか? どうやっていじめを忘れたんですか?」

 

「いろいろ忘れるために試したよ。でもなかなか効果がでなかった。 ただ いろいろ試していく中で一つ分かったことがあったんだ。これに気がついてから だいぶ前進したと思う。これは 今でもいろいろなことに役立っている」

 

「いじめ用だけじゃないってことですか? 」

 

「そう 結局 いじめの期間に得られた気づきが 今の俺なんだよ。だから 今 そうやって悩んでいることは きっと君を強くしてくれるよ。でも 早く 忘れたいよね」

 

「はい。で、何なんですか 分かったことって」

 

「忘れたければ 忘れようと思わないことってことだよ」

 

「えっ? よく分かりません」

 

「不思議っていうか 天邪鬼(あまのじゃく)っていうか 人の心って 忘れようと必死になるほど 心はそのことに向かってしまうんだ

 

「そうなんですか?」

 

「うん 不思議だよ。だから よく眠れなくて イライラするっていう人がいるだろう。悩む必要はないんだよ、そんな時は。起きちゃえばいい。そして めいっぱい やりたいことに集中すればいい。そうすれば ちゃんと眠くなる。それで眠れれば御の字さ。多少 睡眠時間は短くなるけど ああ いつもより 睡眠時間が少ないとか 考えない。むしろ 短時間だけど 睡眠が深くなったと考える。それでも眠れなければ 徹夜する。昼間眠くなったらどうしようと心配しなくていい。眠くなっても 5~10分 目を閉じて 目を開けると スッキリする。それからまた 目いっぱい働く。そうすれば ちゃんと 家では いつもより早く眠くなるし 横になるといつの間にか 眠ってしまっている。だから たまに今でも 眠れない日があると 俺は すぐ起きて やりたいことをやっている。一日くらい 眠らなくても 人は死なないよ」

 

僕の答えに

 

「でも 悩まないでおこうって 俺もよく考えるんです。でもできない。だから悩む。だから何の解決にもならないと思うんですが・・・・」

 

 彼は 納得のいかない顔を向けてきました。

 

「うん 何て言うかな・・・悩むと悩んでいる自分が嫌で 早くこの状態から抜け出たくなるよね。でもそれでいいって 認めるっていうかな」

 

「それって おかしくないですか。どうして いいんですか? できないですよ俺。」

 

「そのできない自分の根っこを捜すっていうかな。負の連鎖はどこかで切らなくてはいけない。でないと永久に続くよ。トラウマを強化していくだけになる。どうして 断ち切れないのか? その理由に気がつけるかが まず第一歩だったと思う。俺が気がついたトラウマを消し去れない理由 トラウマをより強くしていく理由、

それは『どうして自分がこんな目に・・・自分は悪くないのに』っていう思いだった。・・・それを『そうだね』って 自分に語りかけるっていうか・・・共感していくんだ」

 

(この考え方の詳しいコツについては 「楽になりたければ生きていけ」の5冊目当たりに書いた記憶がありますが、まだあと3冊校正してないので 出たら見て下さい)

 

「えっ! そんなことしたら なおさら ムカついてこないですか?」

 

「そうだね。そう思うのも無理はないな。でも俺が言っている自分への共感は、それとは違うんだ。自分の方が正しいって気持ちを消していくっていえばいいのかなぁ~。俺はそういうふうに感じていた」

 

「じゃあ 結局 俺が悪いってことなんですか? 自分が悪いって認めればそうなれるんですか」

 

「ううん、そういう意味じゃないんだ。今の君の言葉には 怒りがまじっているよね。そういうものを切り離していくんだ。少しずつはがしていって 自分の気持ちを素直に受け入れるんだ」

 

「でも 実際 傷つけられた時 俺は悪くないですよ」

 

「確かにそうだと思う。俺もいじめに対してその思いがものすごく強かった。だってどう考えても理不尽だったから。顔にやけどの跡があるから気持ち悪い、生きている資格がないなんて、我慢ならなかった。だから 怒りの下で苦しんでいる自分になかなかたどり着けなかった。だから今俺が言った事を、俺自身なかなかできなかった・・・本当に1年半苦しんだ・・・考えると必ず『そうだ 僕は悪くないんだ。僕は被害者なんだ~』ってなった。そこで止まってしまっていた。怒りの下にある本当の自分にまで意識がたどりついていなかった。ただそうやって語りかけていくと

・・・憎しみとかといったものより・・・自分の気持ちに正直になっていく・・・

 

あっそうだ、そういった意味で自然は大切だよ。友達だよ。自然の中で悩んでいると、いつのまにか頭が澄み渡って来る。そして分かっているようで無視してきた自分に気がついて、はっとするんだ」

 

「で、先生の正直な気持ちって何だったんですか?」

 

「驚くほど単純なものだったよ。そうやって行きついたのは どうしようもなく悲しんでいる自分だった。『悲しい、とてつもなくただ悲しい』。はっとしたよ。悲しんでいる自分なんて 当たり前のように分かっていたつもりなのに 分かっていなかったんだ。結局・・僕はとても悲しいんだって分かった。この悲しい自分を ごまかすために 必要以上に 相手を憎んでいたことに気がついた。・・・そしたら心に変化が起きた。3年生の時どうしても もうダメだって感じた時 初めて頑張ってきた自分にごめんねって言えた。それまで 頑張れ頑張れって叱咤して 頑張れなかった自分を卑下して、どんどんだめにしていったのは自分自身だったことに気がついた。そしたら 僕は悲しい、本当に悲しいんだって 改めて気がついた。言葉はそれしかでてこなかったよ。そしたら 自分に言っていたよ。僕は悲しかったんだねって。僕、悲しかったんだね。でも 頑張って来てくれたんだねって。頑張って来てくれてありがとうって言葉が自然に出てきた・・・そしてボロボロ涙が出てきて止まらなかった。なんでか分からない・・だから 怒り憎しみの下にいる自分に共感するということなんだ。だから 確かに相手によって 心が傷つけられることは 誰にもあるけれど それをトラウマにしてしまうかどうかは その人によるんだと思う。こんなことされたんだから傷つくのは当然と相手を憎んでいるだけだとトラウマになっていく。もともとないものを自分で作り出してしまっていることに気がつかない。相手によって作り出されたものだと言い訳しているんだね」

 

「ああ~ なんとなく分かるような、分からないような。でもそういうことか。そうですね。俺は悲しいってより怒ってますよね・・・でも時間かかりそうですね」

 

「うん 人によっては あっという間に出来てしまう人もいるかもしれない。でも時間がかかっても いいんだよ。それは その時間がその人には必要だったんだよ。そして それに気がついても すぐ楽になれるわけではないんだ。ちょっとずつ 楽になってくる。そう心がちょっと軽くなったように感じられるんだ。そのほんの少し楽になった自分を認めてほめるんだ。これ大事だよ。すると きっと自分は戻れる。そして その時は 絶対に前より強い自分になっているって感じられるようになっていくよ。そのほんのちょっとした前進を喜んで 自信に変えていくんだ」

 

「本当に そんなこと感じられるんですか?」

 

「ああ、本当だよ。俺は 小学校時代 ここは嫌だっていう場所がいくつもあった。学校の校庭にしたって ミミズを食わされた場所に行くと 必ず鼻の中にミミズの匂いが蘇り 胃の中の物が口に逆流してきた。初めて暴行を受けた幼稚園の壁の前も嫌だった。そこで遊ぶことになると いつも 息を止めて走って そこを通り過ぎた。そういう場所がいくつもあった。でも そういった所にいっても 少しずつ平気になっていった。相変わらず 心臓がバクバクしたり 気持ちが悪くなったりするんだけれども 以前よりましになっている自分に気がついた。そのたびに 僕良くなっているって思えた。頑張れるよ、僕、絶対に戻れる。良くなっている。回復して来ている。そう、僕は心も体も強い健、そういう名前を神様からもらっているんだから 乗り越えられるって」

 

「そうか パッと すべてが 変わるわけではないんですね」

 

「う~ん。さっきも言ったように 人によるのかもしれない。俺は 少しずつだったな。でも 急に良くなれないからと 嘆かなくていいんだ。体の傷が治るのに時間がかかるように 心の傷だって癒やすのに時間がかかる。体の傷よりずっと時間がかかるんだ。だから俺にはそれだけの時間が必要だったということだと思う」

 

「なんで そんなに心の傷って 治るのに時間かかるんですかね」

 

「そうだね。俺は治る時こう思ったよ。さっきの うわべの心の中の下にある本当の自分が 臆病だったんだなって。結局 僕は治りたいなんて言ってたけれど この方が自分にとって都合がいいと 思っていたんだな。この方が今のみじめな自分を 人のせいにできるから 変わるのが怖かったんだなって」

 

「えっ! 先生の壊れた心を 元に戻したい気持ちが うそだった? そんなわけないじゃないですか」

 

「もちろんうそじゃない。心からそう思っていた。でも そのためにはどうすればいいかって時に ウソをついていたんだな。このままでいいってさ。 こわかったんだと思う」

 

「こわいって 何がですか?」

 

「漠然とした恐怖かな。自分は変わりたいくせに そうなった時 何が起きるのか どう対処すればいいのか分からないってことに おびえていたんだと思う。だから俺はずっと愚痴っていた。

そして こんな気持ちになるのは あいつらのせいだと 相手をののしっていた。相手を何とかして屈服させ 変えたかった。でも 結局 それは無理だと悟った。ならば方法は一つ 自分を変えること。そこで自分を変えることも試した。最初はいじめられているのは自分ではないと思い込む方法だった。でも これは俺をもっとダメにした。自分の心が死んでいくのを感じた。

(ここらへんは 出版されている上巻 「パチンコ」「魂は不滅?! ふざけるな」 に くわしく書きました。そして このせいで 自分の中に別の自分が出てきたこと。それぞれの人格の紹介は5冊目に 書きました)

そして 相手を変えるために自分の態度を変えるとか 逃げるために変わるとかではダメだと 気がついた。今を変え、本当の意味で今を生きるためには 捨てなくてはいけないものがあった。それが 僕は被害者、正義は僕にあるって思いだった。これがある限り 言い訳ができたから 手放したくなかったんだね。これが 一番大変だった」

 

(ここらへんの 葛藤も 4冊目 5冊目にありのままに書きました。出たら読んで下さい)

 

「う~ん、最後がよく分からなかったけど 、少し気が晴れました。ありがとうございました」

 

翔平君は スカッとはまでは いきませんでしたが 少し笑顔を取り戻して 帰って行きました。

 

 その後 翔平君は 何度か 訪れましたが 最後 この答えを出してからは こなくなりました。

 

「先生 結局 俺の問題だったんですね。いや 俺が悪かったとかという意味ではなく そういうことですよね」

 

「そう そういうことだね。さすがだよ。俺よりずっと 答えにたどり着くのが早かったよ。きっと お母さんとの関係が良くなっていくと思うよ」

 

きっと 彼も 自分の心が嘘つきであったことに 気がつくことで 問題は 単純で 一歩踏出してみる覚悟ができたのだと思います。

 

 

 

本当に人間の心って 面白いものです。

 

本気で変われないのは そこに言い訳ができる臆病な自分がいて 変わりたくないから。忘れたいのに忘れられないのは 屈辱の日の自分に正義があったと思いたいから。また その人を忘れたくないからなのです。・・と、僕は思っています。 

 

親子の確執 終了

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親子の確執②

 

前回翔平君が来た時

「結局俺の心が狭いことがイライラの原因なんですよ。

俺が悪いんです」

と自分を責めていました。

 

確かに こういう場合もあります。

そういう時は この気持ちは大切にしなくてはいけません。

 

しかし 明らかに理不尽な扱いを受けている場合このように思ってしまうのはよくないことなのです。

 

不安と憎しみ渦巻くだけの地獄に自ら入って行ってしまうのです。

僕はこの世界に入ってしまい とても苦しみました。これは自分の心の世界の支配権をだいぶ失っている状態です。納得せずして 相手に支配権を受け渡そうとしていることに気がついていないのです。

 

 案の定 数日後 翔平君は再びやってきました。

 

だいぶ落胆し 怒っていました。彼は心の内をお母さんに打ち明け お母さんは謝ってくれたそうです。ところが・・・

 

「あやまったくせに 全然変わらないんです。前と同じ。その分いっそう頭に来ちゃって なんだよ、反省してないじゃんって、それで言い合っていたら、また決定的な事言われて、前より関係が悪くなりました」

 

「そうか。お母さんなんて言ったんだい?」

 

彼とお母さんの言い合いを再現することこんなふうになります。

 

「ママ 謝ったじゃないの。謝ったよね。あれだって おかしいよね。それほどのこと。この先 ずっとその話を持ち出すつもり」

 

「何だよ、あれうそかよ。おかしいってなんだよ。本当は悪いと思っていないってことじゃないか。だから変わらないんだろ。うそつきじゃないか」

 

「うそじゃないわよ。納得はいかないけど、あんたを傷付けたことは本当に悪かったと思ったから謝ったのよ」

 

「何言ってんだよ。口だけなら いくらでも謝れる。本当に謝ったかどうかは その後変わったかだろ」

 

「親ばかり責めて 何様のつもり。親への感謝というものがないの。パパなしでここまでこられたのは誰のおかげ? そこ考えたことあるの、それでもそんなことが言えるおまえが間違っているの。そういうこと言える所がパパそっくりなのよ」

 

「・・・・わっけわかんない。なんでおやじが出てくんだよ。最後はそこかよ。昔と全然変わってないじゃん」

 

「何がよ、翔平こそ 変わっていないじゃないの。いざという時はママばっかり責めてパパそっくり」

 

「ふざけんな。二人が仲良くしてくれていれば 俺たちの人生こんなんじゃなかったはず。本当の俺の人生を返せ」

 

「こんな人生って何よ。ママに謝りなさいよ」

 

なかなか激しいです。

 

「先生 ひどいと思いませんかうちの母?」

 

「うん、そうだね。俺が翔平であってもきっと頭来ると思うよ。でもね実はさ。辛いことなんだけど、許すということは許し続けるということなんだな。当然 謝る側もなんだけどね。謝ってもらった後 何も変わらなければ 許した自分が むなしく辛くなる。許すということが 一瞬ではないことを思い知らされるんだ」

 

「どういうことですか?」

 

僕は 自分の体験を簡単に話しました。本に書いたように 僕は いじめを行ってきた相手から突然に謝られ これを許しました。時間にして1,2分の出来事でした。

 

ところが 僕は 彼らを 以前に増して憎むようになってしまったのです。

 

彼らは謝った後 僕には何もして来ませんでした。約束通り何もしなくなったのです。しかし 僕の心は治りませんでした。

 

まるで以前のことなど 何もなかったように 目の前で遊んでいる彼らに対して 突然 心の底から 噴き上がって来る怒りを感じていました。その怒りを抑え込むことができませんでした。

 

「お前たちにとっては いじめをやめることなんか 大して努力なんか必要ないことだったんだな。おまえ達にとって、俺にやってきたいじめは、その程度のことだったってことだな。こっちが苦しむほどうれしいなんて言いながら、こんなにも簡単にやめることができることだったのか。だったら、どうしてもっと早くやめてくれなかったんだ。おまえ達は簡単にやめられた。それでいいかもしれない。でも、でも、俺は壊れたままだ。どうしてくれる。俺を元に戻せ。何楽しそうに遊んでるんだよ。ふっざけんな~」

 

そんな自分に対して

 

「謝ってくれたんだから、いいじゃないか。そして 約束通りいじめはしてこない。それに許すって僕も言ったんだ」

 

何度も何度も 自分に言い聞かせ 怒りを鎮めようとしたのですが 怒りは鎮まらなかったのです。

 

その後 僕は必死に怒りを鎮める方法を模索しました。記憶喪失になって いじめを忘れてしまえば 楽になれると思いました。でも そんなことは出来ないし 大好きな家族を忘れることなど絶対に嫌だと思いました。

 

僕はついに我慢できず 何もしてこない相手に対して

 

「あんな一言で許されると思うな。俺の心を返せ」

 

と突っかかって行ったのです。

 

相手のうち一人は、僕の言葉にしどろもどろになり その後逆上してきました。

 

その受け答えから 僕はあることを 感じたのです。

 

「こいつらは 僕を怖がっている」

 

ということです。

 

この時 彼らどう謝っていいのか分からなかったのだと思います。彼らとのやりとりの中で 彼らの中に『怖れ』を感じた僕は無益な戦いの再開を阻止することができました。

 

怒りに満ちた僕でしたが 反面これまで 感情に流されることが どれほどむなしく さらなる争いを生むことも 理解していたのです。

 

以前の僕だったら そんな彼らに対して 感情をぶつけて 再び取っ組み合いになっていたと思います。

 

怖れを感じた相手に対して

 

「よし行ける。ここで叩き潰してしまえ」

 

と強行してしまう人がいるかもしれません。

 

でもそうする人は自身も相手を恐れているのです。

 

そしてその態度こそ 相手が最も恐れている事なのです。

 

その怖れにつけこんで こちらの感情を叩きつければ 相手も黙っていません。必要以上に逆上します。

 

感情に流されて実際問題どうしていけば一番いいのかを忘れて 行動してしまうと 結果は悲惨なものになります。たとえ相手を負かしても変わらない現実に愕然としてしまうのです。

 

今まで自分を傷付けてきた相手に仕返しをしても 何も変わらない現実は 自分を打ちのめします。自分のことを嫌で仕方がなくなっていくのです。

 

「親の気持ちを考えれば、親の謝り方は精一杯。だから親を許してあげましょう」というのではありません。

 

これまではどちらかというと支配的な関係にあり その接し方で息子を傷付けてしまっていたことを お母さんは初めて知ったのだと思います。そして悪かったと思ったのは ウソではないと思います。

 

としても 彼の話の所々に出てきたように お母さんは一生懸命でもあったわけで そこまで謝らなくてはいけないことなのかという気持ちもあるようです。

 

言われた本人は覚えていても 言った本人は覚えていないことは多いものです。言った側からしてみれば、そんなつもりで言った事ではなく「そんなことで傷つくなんてどうして」と不満すら湧きあがって来るようです。

 

お母さんの気持ちを代弁すればこんな感じなのだと思います。

 

「私は親なのに子供に謝ったのだ。それは確かに傷つけたこともあったのかもしれない。でも私はこの子の為に一生懸命やってきたのだ。それをどうのこうのと子供の言い分をどこまで受け入れなくてはいけないのだ。謝ったことで もう終わったことじゃないのか。過去のことをどのように償えばいいのか 私にも分からない。それを償うこととは、まさか今後何を言ってくるか分からない息子の要求に従わなければならないということか それは出来ない。支配関係が逆転してしまう。このまま言うことを聞いていたら 今後何を要求されるか分からない。」

 

こういった怖れが反感となって頭をもたげてきたのだと思います。

 

謝る許すは 言葉では一言二言で済みますが 実際はそんなことで本当に解決する問題ではないのです。

 

翔平君に謝ったお母さんは おそらく どうすればよいのか困り これ以上何か言ってきたら 理性的に対処しきれないという怖れを感じたのだと思います。

 

謝った方は すぐに変えることができなくても 少しずつ努力し続けなくては 謝ったことになりません。

 

そして許す方も すぐには変われない相手に対して 努力を認め許し続けなくてはいけないのです。

 

しかし現実問題 相手は本心で謝ったとしても どうやって変えていけばいかという心の整理整頓 上手く変えられない自分の状態をどのような言葉で説明していけばいいのか 分からないことが多いのです。

 

こういう場合 楽になる方法は 相手を責め立てないことです。

 

彼は 母親から愛されていると心から感じていないのでしょう。

 

これを得るためには 彼とお母さんが 許すこと 許されるように努力することを互いにし続け お互いそれを認めなくてはなりません。時間がかかることです。

 

お互いの気持ちを言い 謝ることはいいのですが 「だからお前の方が悪いんだ」というように 相手を批判してしまうと結局は元に戻ってしまいます

 

相手に対して感情的に批判を続けている限り 泥沼状態から抜け出ることは出来ないのです。

 

ただ 僕は彼が「僕はお母さんから愛されていたんだ」と理解したとしても 彼自身 自分を認めていないので 母親との間の溝は なかなか埋まって行かないと感じました。

 

これは 僕が最も苦しんだ 糸口の見えない心の葛藤と似ているのでそう感じたのです。

 

このような心の葛藤を消滅させる方法 それは 一言で言うと 今の自分を充実させることなのです。次回は 僕が心の葛藤を乗り越えて行くために行った方法と その方法から気がついたことについて 書きたいと思います。

 

 

 

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親子の確執①

 

僕は何度も書いてきましたが いじめを乗り越えられたのは 僕が強かったからではありません。温かい家族 とりわけ 太陽のような母 そして 誰よりも僕を支えてくれたコウちゃんがいたからです。本当に運が良かったと思います。しかし 残念なことに 温かい家庭に恵まれず心に深い傷を負ったまま成長していく場合もあります。。

 

何十年前だったでしょうか。翔平君(仮名)という生徒がいました。彼は授業中何回話しかけても元気がなく、「どうせ俺バカですから 皆そう思ってますよ」「俺なんか誰も気にしてませんよ。先生迷惑だから あまり俺に当てないでください」と答えるのです。自己肯定感がとても低く、僕は気にかかっていました。なので 僕はなんだかんだと言いながら 声をかけていました。するとある日の放課後相談に来たのです。彼は自分の生い立ちと心の葛藤を僕に話始めました。彼は母子家庭でした。そして別に女の人をつくり出て行ってしまった父親をとても憎んでいました。父親は小学校入学前に出て行ったそうです。それからというもの 彼は母親を守ろうと 一生懸命だったといいます。ところが 小学校一年生の時 片親であることをからかわれ問題を起こしたのです。彼はその時 母親から言われた言葉で より父親を憎むようになり さらに母親に対して埋めつくせない距離を感じるようになったといいます。母親に問題を起こした理由を聞かれた時 彼は母親を傷付けたくなくて理由をなかなか口にできないでいたそうです。その時でした。彼は信じられない言葉を耳にし 頭が真っ白になったといいます。母親は「どうして問題を起こすの。私を困らせたいわけ。おまえは父さんそっくりだ。親子そろって私をいじめているわけ。おまえには罪はないのは分かっているけど おまえを見ると どうしてもあの男を思い出して イラっとくる」と吐き捨てるように言ったのです。彼は話しながら当時を思い出したのでしょう。目から涙があふれ出しました。彼は「僕はママを守りたかったんだ」と訴えたそうです。しかし母親は「おまえになんか守ってもらいたくない。ああ嫌だ、ふざけたことその顔で言うな。だったら ママに迷惑をかけるな。問題を起こすな」と答えたと言います。

 

彼の話を聞いていた時 僕はとても共感し 何度も涙ぐんでしまいました。彼は長男で弟と妹もいて その二人は母親似で 母親とはとても仲睦まじい感じだといいます。母系の祖父母が財産を持っていて 学費を出してもらっていて 高校から私立のこの学校に来ていると話していました。翔平君は 家庭がずっと息苦しいとも言いました。問題行動を起こした後 あんなことを言ったくせに 妙にやさしくなったといいます。言い過ぎたことを反省して やさしくしてくれているのかと最初は思ったそうです。ところがそのやさしい言葉になぜかイラっとくる自分を発見して以来、そのイライラが大きくなり、母親に「うるさい、ほっといてくれ」と言ってしまったのです。母親のいう言葉は 「学校の用意はできた?」「これを着て行きなさい」という感じのもので それだけ聞くと どうして腹が立つのだろうと自分でも分からないと言っていました。これに対して母親は「私の愛情が伝わらないのも やっぱりあの男そっくりだ。あんたとママは合わないわね。早く独立して出て行って欲しい」と再び彼の存在を否定する言葉を口にしたと言います。それ以来 彼は 母親の言葉は ロボットが言っているものと考え 自分もロボットだと考えようと決心したといいます。これは僕がいじめに対して ある時期 無痛人間になってやり過ごそうとした心情によく似ています。自分をイライラさせる刺激に対して鈍感になろうとしたのです。レストランに行くと「あなたは長男なんだから しっかりしてもらわないと そのためには これを食べなさい」と勝手に決めることが多いのだそうです。「いや これが食べたい」と言うと顔つきが変わり 明らかに憎しみをにじませた顔で「だったら勝手にしなさい。でも○○円以下にしなさい」と金額まで指定してくるので レストランは嫌いだと言っていました。不思議なことに 弟や妹には始めから「好きなもの頼みなさい」とだけ言うらしいのです。弟達は着る物やゲームなども自由に決めて それを黙認されているが 自分だけは なぜか決められることが多いことに 不満を感じていました。それに対して母親の返答は「これはあなたのためなのよ。まだ子供だから分からないの。あなたは長男なんだから 我慢しなさい」なのです。さらに高校受験の時は「あなたのために おじいちゃんおばあちゃんに協力してもらって 家庭教師をつけることにしたよ」と強制的に家庭教師がつけられたのです。「もう逃げ出したかったけど 成績わるかったし高校には行きたかったから 従った。まあおかげでここに入れたんだけど、何かやる気でなくて 来ているだけって感じ。どうしたら元気がでるのか分かんない。ねぇ先生ってどうしていつもそんなに元気なの?」「そうか 元気でないんだ。辛いな。最近もロボットどうしの会話は続いているのかい?」「いや この学校入学してから問題起こさないためには 母ちゃんが言っていることに従っているのが一番なのかって 思うようにもなって。俺も大人になって いちいち腹立てない方がいいのかなって。あんなこという母親だけど 愛情がないってわけじゃなくて それでいろいろ言ってくれているんだし どうでもいい言葉や その方がいいって言っていることにイラって来る俺が悪いんだって。結局俺の心が狭いことがイライラの原因なんですよ。俺が悪い。でもそう思った自分にもものすごく腹も立つんです。そうしたら だんだんロボットになれなくなってきたんです。聞き流せなくなくなり イラッよりムカって怒りが大きくなってきた感じで自分が怖い。どうしてですかね? 前の方がまだよかった。だからロボットに戻ろうとしているんですが もう戻れないんです。この間も言い合っていたら 無意識にテーブルの上の皿を投げつけちゃったんです。もちろん床に向かってですよ。そしたら母ちゃんも投げつけて。もう親子じゃないって感じになった。耳に入る言葉全部が気に入らないんです。でもよく考えると腹立てるような言葉でないことも多くて」

 

「分かる気がする。戻れないよね。とにかくどんな言葉でもイライラしちゃうんだろ。そのイライラを家族だけでなく 誰かにぶつけたくなってしまう自分を感じると さらにイライラする。イライラが止まらなくなる」「えっ? どうしてそう思うんですか。そうなんです。でも 俺適当な相槌ならいらないんですけど。俺の気持ちなんて そう簡単に分からないよ」

 

彼は無感覚人間になることでいじめの苦しみから逃れようと考えた僕が 限界を感じ 我を取り戻した自分にこれまた似ていたのです。僕は「醜い顔をしているのは確かなんだから あいつらの言っていることは正しいんだから それに腹を立てる僕が悪いんだ。心を強くして それに耐えていくしかないんだ。何と言われても傷つかない鉄のような心にするんだ」と 自分をこれまで以上に責めるようになってしまったのです。ところが そのくせ これまで以上に相手の行動に苛立つようになり 自分の心の弱さを嘆くようになっていきました。僕は彼に僕の体験を話すことになりました。彼は意外そうでした。

 

「まさか 先生がそんな目にあっていたなんて。人を恨んだり 悩んでいた時期があったなんて驚いたよ」「少しは 翔平の気持ちが理解できる理由が分かってもらえたかい? 完全に分かるとは言えないけど 少なくても普通の人より分かってあげられると思うんだ」「分かった。俺嬉しいよ。だって そんな先生が今こんなに明るくて元気なんだもん。俺はもう変わられないと思っていた。でも 頑張れば変わられるんだって分かった。まじ元気もらった。言葉なんていらない。今まで通り いつも元気でいて欲しい。俺もああなれるんだと思える」「そうか良かった。きっと翔平も元気になるよ」

 

彼は話を続けました。

 

「俺ね 入学してから何回か母ちゃんと衝突したんです。何で弟たちは自由で俺だけ別なんだよ。息苦しくて仕方がない。俺だってやりたいようにやりたいって。俺の気持ち分かっていないって」「そうしたら?」「あんたこそ分かっていないって。パパが出て行ってから どんな気持ちであんたを育ててきたのか分かっていないって」「分かっている。俺が父ちゃんに似ているから憎いんだろ。だけど子供だからしかたなく育てている」僕は核心をついた彼の言葉に 母親がどう答えたか彼を真剣な目で見ました。「そう その通り。だけど それがすべてじゃない。ママだって悪いと思っているの。だけどどうしようもないの。だってあんたの顔パパそっくりなんだもん。嫌になっちゃう。どうして似ちゃったのよ。あんたが逆らうたび 憎しみが湧いてきちゃうの。どうしようもないことなの。だからそうならないように ママだって必死なのよ。普通にしていれば翔平を無視したくなっちゃうから ママは必死にあなたにいろいろしてきたの。そのどこが悪い! 文句ばっかりいって ママに少しくらいは感謝したら。親のありがたみが分かっていれば そんな口利くことできないはずよ。そういう感謝の心がない所がパパに似ているの。だからママに逆らわないで。お互いがダメになる。ママに従ってちょうだい。そうすれば家は上手くやっていけるのよ。昔はママの言う通りやっていたでしょ。その時は問題なかったでしょ。なのに 翔平が文句を言うようになって 家はダメになってきたの。分かってる? そうでしょ。弟や妹への影響も考えてよ。皆おまえみたいになったら ママもう死ぬしかない。今だって 死にたいって思うこと何度もあるんだからって言うんですよ。俺、ますますダメだって思う気持ちと 俺が悪いんだって気持ちになるんです。実際昔はそれで上手く行っていたんですから 反論のしようがないんです。でも何か釈然としないんです」「そうか お母さんも正直だね。どうしていいか お母さんも分からないんだね」「えっ・・・だって自分の言うことに従う。そうすれば上手くいくって言ってますよ。」「いやいや 分かっていないと思うよ。苦し紛れの答えだよ。確かに親子の立場は違うし、お母さんが本当に心配していった言葉さえ 翔平にはウザイ言葉に聞こえてしまうこともあるだろう。でも話を聞いていると こんなこと言っちゃ 翔平怒るかな。自分のエゴで我が子を脅しているよ。きっとお母さんは 厳格というか 親の言うことには従わなければならないって教育のもとで育ってきたんだな。どの家庭もそうなんだろうけど 基本的に 小さい子供に礼儀やルールを教えるためには成り立っていないといけないことだよね。だけど親の要求が度を越していれば 子供が反発するのは当然だよ。お母さんも苦しいんだな。翔平の気持ちは分かっているけれど 親の言うことを聞かないことの方が明らかに間違っていると考えている。翔平の気持ちを聞いているのに そこには心を開いていない。共感していないよ。だから お母さんは翔平の気持ちを聞いただけで 聞いてあげて話し合ったことにしているんだと思うよ。その上で判断を下しているのだから とても健全な答えだと錯覚している。一方通行的な家庭のコミュニケーションになっていることに気がついていないんだと思うよ」「そうですか。どうすれば分かってもらえるのかな」「難しいね。でも 翔平はお母さんやお父さんにどうして欲しいんだい。一番望んでいることは何なんだい?」「謝ってほしい。なんか俺だけが間違っているみたいに言われてきて俺すごくつらいんです。父が出て行かなければ 父に似ている俺はきっと かわいがってもらえたし もっと自由に生きてこれたはずだから」「謝ってもらいたいんだね」

 

沈黙がありました。

 

「いけないことですか?」「いいや その気持ちは自然だと思うよ。俺が同じ立場だったら同じように思うと思うよ」「本当ですか? 先生でもですか」 

「うん。だからお母さんの返事も苦し紛れの言葉だろうと思うな。子供が小さい頃は命令的な対応は通用したかもしれないけど 子供も成長しているんだよ、対応の仕方も成長に伴って変えていかなくてはいけない。それをいつまでも対話のない 折り合いを見つけ合わない対応をしてきた結果 今の状態が引き起こされている。でも それが自覚できていないから 何がいけないのって イライラしているんだと思うよ」「・・・親も苦しいってことですか」 

「ん、だろうな」「何となく感じてはいたけど 苦しいのは俺だけじゃないってことですね」「だね。だけどさ 翔平は自分を責めなくていいんだよ」

 「でも 俺がいるだけで 母ちゃんをイラつかせるんですよ。だから俺は何度も父親の所に引き取られようかと思った。母ちゃんもそうしたかったらしくて そういう話し合いもしたみたいだけど 父ちゃんは俺はいらないって」「・・・そうか 翔平はそんな辛いことも経験してきたんだ。悲しかったな」 

「うん どっちの親からも いらないって言われたみたいで。俺って何だろうって・・・でもさ 母ちゃんには世話になっているわけだし 逆らう俺が悪いのかなって」「悪くなんかないよ。いいかい。無理ないことなんだよ。俺もね、いじめにあっている時 自分の中に湧きあがる憎しみにとても苦しんだ。こんな気持ちになってはいけないんだって。すごくつらかった。そんな気持ちになる自分が悪いんだとなんとか消そうともがいた。でも消そうとすればするほど現れるんだな」「そうなんです。苦しいです。先生はどうやって乗り越えたんですか?」「乗り越えたんじゃなくて 無理もないんだって 自分の気持ちを素直に受け入れたんだ」「いいんですか そんなことして」「いいんだよ。だからといって 相手に復讐していいってのとは違うよ。これを認めると 復讐しちゃいそうな自分が怖かった。でも俺は分かっていた。自らそれをしたら俺が苦しんでいるいじめを自分でやっていることになるって。最低の人間になるって。だから そういうことをしっかり自覚していれば大丈夫だよ。そうしたらとても気が楽になってきた。あんな目にあわされたら相手を憎む気持ち 怒りの気持ちが生まれても当然のこと。悪いことではない。当然のことなんだ。そしたら初めて自分自身にやさしい言葉が出てきたんだ。よく頑張っているねって」「そっか 良かった。答えは出てないけど 相談に来てよかったよ。すごく気が楽になった。もし何かあったらまた来てもいい? 俺また母ちゃんと話してみます。それでもだめならまた来てもいいですか?」「もちろんだよ。遠慮しないで来いよ」翔平君は礼儀正しく 生物室から出て行きました。彼が出て行った後、僕は おそらく彼はまた来るだろうと思いました。なぜなら 彼は母親と父親に謝って欲しいといいました。母親がたとえ謝ったとしても 彼の話からすると 彼が納得が行くように謝るとは考えにくいこと。何よりも 謝ってもらっても深く傷ついた心は相手を許せない、いや自分を許せないことを僕は経験していたからです。それらの心の経過が拙著の中巻②や下巻①②でした。案の定しばらくして 翔平はやってきたのです。・・・てことで 打ち疲れたので今日は ここまで。

 

追伸:9月にコメントを頂いた またりさん コメントを読んだ時 翔平君のことを思い出しました。今回と続編が少しでもお役に立てばと願っています。

 

 

 

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ふと感じた物理の法則

 

久々の更新。

先週末、田舎に帰りました。今回はその途中で思ったことを書きます。

 

 

 

長岡駅に着くと 「うおお~やっぱり こっちは寒いな。顔に当たる風が痛い」実は僕、結構寒さに強いのです。

 

東京では 他人が冷たいと言う風に当たると小学校時代を思い出し「この気の引き締まる冷たさはいいな~」と感じてしまうほどです。

 

その僕が痛いと感じたのですから やっぱり 新潟は寒さの厳しい地方なんだと再認識しました。

 

長岡駅のホームで特急を待つ間「地球温暖化の影響はあるけれども 大雑把に考えて 地球が持つ熱エネルギーがほぼ一定ならば ここが寒いということは その分どこか あったかいんだよな~。あっこれ エネルギー保存の法則だったよな~」

 

理科の先生だったから(とはいっても 生物専門だったから詳しい物理はちんぷんかんぷん) こんな法則思い出すのかな~。坊さんだったら ああ~不増不減なりと感じるのかな~」と ふと思いました。

 

急行列車しらゆきに乗り込み 小学校時代からの同じ時期を次々に思い出していました。

 

小学校時代の冬、中学校時代の冬 それぞれ寒かったのですが それぞれを思い出すと こみあげる感情は違っていました。

 

そして 高校時代 15歳で康ちゃんと 東京に出てきた時 「東京の風は 思ったより冷たいな」と感じながら 二人で近くの銭湯に 凍えながら行ったことを 思い出していました。

 

20代、30代、40代、50代そして60代と 思いをめぐらしていると それぞれの時代に 特別な思い入れがあり良い経験となっていることに 気がつきました。

 

各時代に その時代を象徴する初心のような気持ちが存在していることに面白さを感じました。

 

それぞれの時代の今頃の様子は 地球の温暖化とともに違っています。たとえば 20代前半 12月頃は 寒さに強い僕もダウンコートを着ないと 寒くて仕方がなかったのに だんだんそうでなくなりました。現在の僕は 通勤時 背広のままです。

 

地球全体の熱エネルギーは ほぼ一定に保存されていますが エネルギー自体は 一定の場所にとどまっていないのですから その場所である時丁度良いと思っていた生活の仕方が 10年後 適さなくなっていても不思議はないのですね。 

 

今 これを打ちながら 各時代を振り返ると気候に限らず 世の中の価値観 情報通信手段  流通方法など 何事もとどまることなく 変化していることに 今 さらながら驚きます。

 

「各時代、丁度いいバランスを保つには その時代に合わせて 本人たちが 努力しないと いけないんだな~」と これまた今さらながら 努力不足だった自分を反省しています。

 

人間関係も 同じですね。たとえば夫婦関係。

 

最初は この人の為に何かしてあげられることが 何よりの喜びであり 愛情というエネルギーのすべてを 相手に注いでいるのだと思います。

 

でも 子供が生まれれば 当然ながら その思いは 夫()から子供へと分配されます。

 

そうすれば 夫と妻との間に昔あった エネルギーは必然と減ってしまいます。そこが減れば減るほど その他にそのエネルギーが流れ込み 夫婦間は冷たくなります。子供もしくは 他の人間に気持ちが向くことになるわけです。

 

でも 互いを大切に思う炎は まったく消えているわけではありません。だから 長続きする人達は 互いに その炎に 薪を適量投げ込む努力をしているってことなのですね。

 

互いに投げ入れるってところが 続くか続かないかの決め手なのかな~。片方だけでは 疲れてしまいますからね。

 

適量というのもミソなのでしょう。投げ込み過ぎれば 子供へのエネルギーが不足しかねませんから。

 

なるほど テレビで有名だった大家族の夫婦が 離婚してしまった原因はここにあったのかなんて。

 

うん? この時 物理音痴の僕の頭の中に もう一つ 聞きかじったことのある物理の法則が蘇りました。それはエントロピー増大の法則です。

 

一言で言えば 全ての物は 放っておくとバラバラになり 色々なものが混ざり合った姿に向かうというやつです。秩序あるものは 混沌とした世界へ変わっていくという法則だったと思います。

 

子供がたくさんいるということは 言い方は何ですが 家庭内に そのような物体が多いということです。

 

家族内でそれぞれは 好き勝手に活動し しっちゃかめっちゃかになるのが 必然なのです。うむむむむ、こうなると それを引き寄せる エントロピーの法則に逆らうエネルギーが必要となります。

 

あららら 家族愛を深めながら生きるということは 

ちょっとばっかり 物理の法則に逆らうことになるなと思いました。家族愛というエネルギーがそれぞれをつなぎとめているわけです。

しかし 夫婦間で適度の愛情を保ち 子供たちの成長に合わせて エネルギーを分配することはそうたやすいことではないでしょう。なるほど 世の中のお父さん お母さんは大変なわけですね。

 

子供がいようといまいと 夫婦が互いに偏ることなく 夫婦間の暖炉に 薪をくべる努力をしないと ぎくしゃくしてくるのだと思います。おそらく 離婚したいと思ったことのない夫婦はほとんどいないと思います。互いに 薪をくべることができれば 回避できるし できなければ エントロピーの法則に従うことになってしまいます。

 

親子関係も そうなのだと思います。昨今 親子・肉親どうしが どうしてこんなことにという事件も少なくありません。

 

さきほどの 家族の絆をつなぐエネルギーがないと 

エントロピーの法則に従い バラバラになり 親子関係が希薄になってしまいます。

 

子供が生まれた時 きっと 親子暖炉なるものが親子の間に現れるのでしょう。親は暖炉の火を絶やさないために 薪を投げ込み 燃やし続ける努力をします。

 

そのうち そのぬくもりに感謝した子供も 暖炉に薪を意識的にくべるようになってきます。子供は 赤ちゃんだった頃は 笑顔という薪をくべていましたが 買い物などの手伝いをすることで 別の薪をくべることを 始めるのです。 

 

そこで褒められると薪をくべることに喜びを感じ互いの絆が深まっていきます。親から助けを求められ 出来た時 親から感謝される喜びは何とも言えません。自分の存在感を肯定し自分の存在に自信を持てるのです。つまり 子供も くべる手 与える手がもたらす幸せを知り幸せを発見しやすい心が育っていきます。

 

また できなかった時 励まし待ってくれるありがたさは ありがとうと言える心を 育ててくれます。僕は兄弟の中で 母から最もこの愛情を受けたと感じています。姉や弟が 当たり前に出来ることができませんでしたから。

だったからでしょうか 僕は 現代この信じて待つということを忘れてしまった親や教育者が多いように感じます。これを行うには 心に余裕が必要です。 自分の生を振り返ると家の母親は 子育てにおいて このエントロピーの法則に逆らうことがとても上手かったように感じます。感謝あるのみです。

 

親なのだからと 何でもかんでも子供に干渉しすぎると 良くありません。転ばぬ先の杖のように 何事も心配し用意し失敗すると「用意してあるのに どうして失敗するの? お母さん、お父さん言ったよね」と 頭ごなしにきつく叱る。

 

これでは 失敗から這い上がっていく力は育ちません。諦め癖がついてしまいます。「自分は精一杯やった。失敗したのは 周りが用意してくれてなかったからだ。失敗しないように配慮をするのは 親の義務だ」という 言い訳すらするようになります。

 

事実 悲しいかな こういった生徒を 僕はいくつも見てきました。おそらく この生徒達は 社会に出た時 失敗したら その原因を 会社の配慮のなさにすり替えたりするのだろうなと心配していました。それも だんだん 増えてきていることに これからの社会に不安を感じていました。学校が常に正しいとは言えませんが 明らかなモンスターペアレンツはこういう考え方の延長線上にあるのかもしれません。

 

だから 親のことを愛情こめて「もう~、家の親ってどうしょうもないのよ~」ではなく 軽蔑見下したように冷たく批判する人を見ると 僕はとても悲しくなります。もちろん 小さい頃に 親の責任を放棄して子供を捨て去るような場合は別です。

 

周りと比べて 自分が恵まれていないと感じると それを親のせいにするのです。それぞれの家庭には それぞれの事情があります。その中で十分してくれている親なのに「家の親は何もしてくれない。信頼できない親」だと批判までし始めます。もう会わなくてもいいと言ったりします。

 

なぜこんなことを平気で言えるのか? きっと 親からエントロピー増大の法則に 逆らうエネルギーを 十分受け取ってこなかったからではないかと思います。

 

だから 最初から心が 怒りに満ちていたわけではなく 満たされなかった心が 他人と自分を比べて

自分を卑下していくのだと思います。

 

こういう人の心は 自分で作り出したコンプレックスに負けてしまっているのです。励まして自分で立ち上がるのを待ってあげたいものです。

 

ただし 本人がコンプレックスを受け入れ立ち上がろうとする勇気にふたをしてしまっては どんな応援も役に立ちません。こればかりは 本人が選ぶしかないのです。

 

極真空手の創始者 大山倍達総裁が良く口にした言葉に次のような言葉がありました。「牛を水飲み場まで連れて行くのは 牛飼いの役目。しかし 水を飲むか飲まないかは 牛自身が決めることだよ」というものです。

 

つまりどんな良い方法を教えても それを受け入れる素直さがなければ無に等しい。空手で言えば 強くなるための技術を教えても それを身につけるための練習を自ら意識して行わなければ 絶対に強くなれないということです。

 

『素直さ』 これはとても大切なものです。自分の弱さを認めることは なかなか辛いことです。しかし それがあるから強くなれるのです。素直さがなくなると 誠実さもなくなり計算深くなり 笑顔が減ってきます。全てに対して 不平不満を言うようになります。自分が変われば 世界も変わるのに 変わらない周りが悪いのだと 延々と文句を言い続けます。

 

親に限らず 自分にいろいろしてくれるのは当たり前という甘えにあぐらをかいていると 求めるだけの人間になっていきます。ただこういう人の多くは 自分がそういう人間になっていることに気がついていませんから 始末が悪いのです。どちらかというと 被害者意識が強くなり どうして皆 これで平気でいられるのと 周りを批判します。

 

社会人になっても 職場の人間 友達 恋人の家族

夫(妻)やその家族に対して 口から出るのは すべて悪口になってしまいます。どんどん自分の居場所は狭くなっていくわけです。

 

それを繰り返すほど自分で不幸を引き寄せていることに気がつかないでいます。それを指摘されれば 逆切れして「私の何が分かる? 昔はこうじゃなかった。私がこうなっているのは〇〇のせい」と 怒るのです。ずっと前からそういう人間であったのに 自分が見えていないのです。

 

夫婦 親子 友達 共に歩んできた関係において 

今まであった 「~してあげたい」という気持ちがなくなってきます。自分の為にならないとしても そうすることで喜びを感じた心が しぼんでいきます。そして 今までの関係を捨て去り 「自分らしく生きたい。本当の自分の幸せをつかみたい」ともっともらしい主張をし始めます。互いに助け合い 互いの為にという気持ちはなくなり 自分のためという気持ちへと変換が起きます。

 

僕は「自分らしく」が悪いとは思いません。しかし その「自分らしく」が素直さから生まれたものでなければ 逃げと言い訳の人生を繰り返します。我慢と与えることで得られる多くの幸せを見失います。

 

だから素直さを忘れてしまっている人は 早くそれに気がついて 多くの幸せを見つけて欲しいと願っています。というわけで 世にも適当な物理の法則に関するお話を終わります。

 

ところで 確かに寒くなりましたね。インフルエンザも流行ってきています。皆さん インフルエンザに気をつけて。

 

寝る前は タオルを濡らして グレープフルーツのスプレーやハッカ油を振りかけましょう。濡れマスクに 振りかけると 結構いいです。乾燥した部屋の中で 口を開けて寝てしまうと朝喉痛いですよね。そんな日は是非 これやって寝て下さい。ハッカ油は 蚊よけにも めちゃいいんで 僕は夏も愛用しています。では皆さま良いお年をお迎えください。

 

追伸 ちなみに真理子さんのお家は 栄え食堂の駐車場になっていました。小松医院の所が 食堂になっていました。

 

 

 

 

 

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小さな恋のメロディー

 

小学校時代一年下に

転校してきた女の子がいました。

体の大きな子でYM子いう名前だったと思います。

噂によると東京から来たということでした。

おてんばで男勝りな性格らしく、

中には生意気な奴と言っている子もいたようです。

実際に見てみると とても活発で

確かに気が強い子のようにも見えました。

 

いじめを経験していたケンは、

この子が妙に気にかかっていました。

その噂話をしている人達の様子から

この子はいじめられるかもしれないと

直感していたのです。

 

そしてケンはこの子のことを、

いつからしか好きになっていました。

彼女はみかけとは違ってとても

やさしい心を持っていたからです。

彼女は覚えていないでしょうが、

ケンは学校の花壇で彼女が

あることしたのを見かけたのです。

くわしいことは忘れてしまいましたが、

折れていた花壇の花を立てて去って行ったのです。

本に書いたように学校の花壇の花はケンにとって、

いじめにあった時の話し相手でした。

彼女が転校してきた時

いじめは終わっていましたが、

ちょくちょく話しかけに行って、

感謝の気持ちを伝えていたのです。

ところがある時誰の仕業か

ケンが気に入っていて、

よく話しかける花が踏みにじられていたのです。

それで時々花壇に行って

花たちの様子を見に行っていたのです。

休み時間か放課後だったか覚えていませんが、

ケンは花壇に行くと大柄な女の子が

何かしているのが目に入ったのです。

彼女の背後から近づいていくと

M子ちゃんであることがすぐに分かりました。

よく見ると彼女は倒れている花を

やさしく立てていたのです。

彼女はケンに気づきもせず

また下駄箱の方に戻って行きました。

その彼女の姿と昨年までの自分の姿が重なりました。

 

「似ている。もしそうだったら

(いじめられているのだとしたら)頑張れM子ちゃん」

 

思わず心にこの言葉が思い浮かびました。

 

ケンは花を見てみました。

折れてしまってはいるものの

きちんと束ねられて真っすぐ上に向いていました。

 

「ありがとうM子ちゃん。

君はとってもやさしいんだね。

 

人は何て言おうと僕は君が

とても女の子らしいって知ってるよ」

 

ケンはこのことがあってから、

M子ちゃんを見かけると

 

胸がときめくようになっていました。

 

「M子ちゃん、いい子だよな~。

もしいじめられても頑張れ、僕がついてるよ。

辛いことがあったら言ってね」

 

と心の中で言っていました。

ただ、ケンが見かけた時のM子ちゃんは、

友達の女の子と元気にしていたし、

どう話しかけていいか分からず

遠くから見ていることしかできませんでした。

中学生になって僕は高田の中学校に

通うようになりました。

あれほど遊び歩いたK町を歩くことは

ほとんどなくなってしまいました。

それでもたまにM子ちゃんが住んでいる

住吉町の坂の前を通るたび思い出していました。

ある時、父の運転する車に乗せられて

住吉町の坂を登って行った時のことでした。

右手にあった彼女の家を通り過ぎながら、

彼女のことを思い出していました。

「元気にしているかなM子ちゃん」

そしてふと左手を見た時でした。

走っている車の中から、

ちらっとしか見えませんでしたが、

一人の女の子が飛び込んできました。

剣道着を着た女の子が

歩きながら素振りをして

浄福寺に続く石段を登って行くのが見えたのです。

顔はよく見えませんでしたが

「M子ちゃんじゃないだろうか。

中学で剣道部に入ったのかな。

どうしてかな? いじめにあっていた僕が

強くなりたくて病院の裏山で

ケンカの特訓したように、

自分を鍛えたいと思って入ったのかな? 

でもどっちにしてもあれがM子ちゃんだったら

元気にやっているんだな」

と思ったのです。

これがM子ちゃん(だったかも)

見かけた最後でした。

後に小さな恋のメロディという映画を見た時、

小学生の僕にとって心に残る女の子は

M子ちゃんだったなと思いました。

 

さて、僕の前回のブログ「タマムシ後日談」に

転校生の真理子さんからコメントが届きました。

コメントの内容を読んで驚きました。

 

僕は はっとしました。

 

「M子ちゃんか?」

 

一瞬インディアンが履いているひもがついて

すその広がったズボンをはいて

走り回るM子ちゃんの姿が浮かび上がったのです。

そんなズボン履いていたかは分かりませんが

なぜかそんなズボン履いてました。()

 

もし、真理子さんが

M子ちゃんだったら 感激です。

 

そして僕も小さい頃M子ちゃんに

「M子ちゃんはとてもやさしい。僕は知っている。

大好きだよ。もし誰かにいじめらたら言ってね」

と言ってあげられていればと思いました。

小学校低学年の頃、

家族以外自分の事なんか

誰も見てくれていないと思うことがありました。

でも必ずどこかで誰かが見てくれているのですね。

ありがたいことです。ありがとう。

 

 

コメントして下さった方がM子ちゃんだったら

お元気で幸せなご様子。安心しました。

僕らの辛い経験は あの時は辛かったですが、

この歳になると

「あれは今の幸せを理解するためにあったんだな。

あの経験で、僕たちは普通の人たちが

見つけられない幸せを発見し

人生をより楽しむ力を得ることができたんだ」

と思えているのではないでしょうか。

 

感受性の高い時 不幸の数ばかりを数えていると

自分の人生すべてが不幸だと 勘違いもします。

でも その中でもがき一生懸命生きていると

光が現れます。

 

いや現れるのではなく、

今そこにある幸せが見えてくるのでしょうね。

幸せは 当たり前の暮らしの中に たくさんあって

自分で見つけることができます。

これができる感性が育つのでしょうね。

それこそ

一生幸せに生きていくための宝物ですよね。

僕の顔の傷がお猿さんに攻撃されたという情報は

きっと『楽になりたいなら生きていけ』の

「猿の思い出」に書いた事件が関係している

のかもしれませんね。

 

最後に M子さんであろうとなかろうと

真理子さんも お元気でいて下さいね。

またブログ更新したら読んで 

連絡くださいね。楽しみにしています。  

 

 

 

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タマムシ後日談

 

Kさんご心配かけてごめんなさい。僕は元気にやっています。

 

実はこのホームページのログイン方法が変わり その手続きをやっていたら、失敗してしまいました。

 

その後何回も試したのですがやるたび失敗。

 

ミスターアナログの僕は訳が分からなくなり、 

ログインできなくなっていたのです。

 

でもKさんのコメントは僕のiPadに届き、 

「これはいかん。Kさんが待っている。

頑張ってログインを成功させよう」

と、奮い立たせてくれました。

 

試行錯誤の結果、またログインできるようになりました。

 

ありがとうございます。

 

僕の近況ですが、夏休み帰郷し、

母の手料理攻めにあって5.5キロ増量し、

今はダイエット中ということにしています。

・・・が、なかなかね。

大好きなビールとラーメンはやめられず、

運動量を増やしているところです。

お元気ですか? 

僕の超レアなマイナーブログ

読んでくれている人がいるということを

思い出させてくれてありがとう。

 

頑張って更新するね。

 

と言ったものの、自宅ではコンピューターには

 

気がついた時にしか触れないからな~・・・・

 

でも、今日みたいに触れた時は

 

思いついたまま、打ちまくっていきますよ。

 

夏休み、ちょっと驚いたことがありました。

 

帰省中、母がきれいな虫の話をし出したのです。

 

「あれ何て名前の虫だったかな~。

いろんな色が混ざってきれいな虫」

 

僕はピンときました。

 

「もしかして、それタマムシのことじゃない」

 

「そう、それだ、タマムシだ。

あれはきれいな虫だよな」

「うん、俺は一番きれいだと思う。

どうして突然そんなこと言ったんだい?」

 

不思議に思って聞いたのです。

 

「ああ、何年前だったかな~。

おまえ達が小学校の時からある

タンスに入っていてな。

何で入っているんだろう、

縁起物の虫だから

誰が入れたんだなって思ってな

 

「えっ、それどうしたの? 捨てちゃったの? 」

 

「いやまさか。いい虫だから

まだどこかに入っているよ。

もったいないから新しいタンスか、

どっかに移したんだったけな~。

とにかくどうしてタマムシが

入っているんだろうって

不思議でたまらなかった。

お母ちゃん自分で入れた記憶ないし、

もしそうだとしても忘れちゃっているし、

誰にもらったんだろうって、

いくら考えても思い浮かばないんだ」

 

「それ、俺が入れたやつだよ。

俺が拾ってきて入れたんだ。

お母ちゃんが入れておくと

着物増えるっていうから、

着物増やしてあげたくて入れたんだ」

 

僕はやや興奮気味に答えました。

 

そうでなんです。

 

以前のブログ「タマムシ」の中で拾ってきて、

 

僕がタンスに入れたタマムシです。

 

「そうか、ケンちゃんが入れたんだ。

そうかそうか。そこらへんにいる虫じゃないから

どうしたんだろうって不思議だったんだ。

それで納得がいった。

お母ちゃん昔のことはみ~んな忘れちゃってな。

でもよく覚えていたね。

おまえはほんと昔の事よく覚えているよ」

 

次の日、さっそく三階に上がり

タンスを探索し始めました。

しかし、クーラーの入らないロフトで、

あの暑さですから、

すさまじい汗が吹き出し、

あまりの暑さにすぐ退散しました。

でも「あのタマムシが

まだこの家のどこかにあるんだ」

と思うと何ともいえない気持ちになりました。

 

「生きていてよかった。

今こうして生きているから

お母ちゃんに親孝行できている」

 

見つからないタマムシに

ありがとうを言いました。

 

自分に自信がなく心に大きな闇を抱えて

生きていたあの少年時代。

 

一時ですべてを決めるなということを、

 

言葉でなく感じさせてくれたタマムシ。

 

当時の僕は 植物や虫達に声を出して

 

話しかけていました。

 

自分の本当の気持ちを 思うだけでなく

 

声に出していたのです。

 

僕には どうしても 

 

そういう場所が必要だったのです。

 

声を出して言うと 思うだけの時と違って

 

なぜか 動植物の返事が

聞こえてくる気がしたのです。

 

いや気がしたのではなく、聞こえていたのです。

 

毎回ではないのですが 確かに声として

 

聞こえてきたのです。

 

花や虫が人間の言葉、

 

それも日本語を話すなんてことは

 

あるはずのないことですが、

 

その声を受け取った僕は不思議に

 

思いませんでした。

 

それがうれしくて 夢中になって

 

話しかけていたのです。

 

当然ですが 隠れてやっていました。

 

一番近い場所は 学校の花壇でした。

 

しかしその姿を目撃されてしまうこともあり

 

いじめの口実を与えることにもなっていました。

 

話を戻します。僕はタマムシを手にのせて

 

眺めることが好きでした。

 

見る方向によって

 

色々な輝きを放つタマムシを見て

 

話しかけていました。

 

「君はいろいろな色を持っていていいな~。

 

僕、虫の中で君が一番きれいだと思うよ。

 

君を見ていると、

 

海や山、野原や川、

 

明るくてあたたかい場所や

 

静かな所でそよ風に吹かれて寝そべったこと。

 

きれいな夜空をコウちゃんと眺めて

 

神秘的な気持ちになったことを思い出すよ。

 

いろいろなことができて楽しいよ」

 

「いいな~。それってケンちゃんが

経験したことだろう」

 

「うん」

 

「僕を見て楽しい。安心だと感じるのは、

 

その思いがケンちゃんの中に

もともとあったから、

 

思い出したんだよ。

いいことたくさんあったんだね。

 

僕を見て次はどこへ行きたい?」

 

僕はタマムシの返事を聞いて

はっとしたのです。

 

ひどいいじめにあった日 隠れ家で

 

次のように思うことはよくあったのです。

というより毎日ですから。

合計すれば何万何千回言っていたはずです。

 

「前は楽しいこともあったんだ。

それなのに もう無理だ。

あいつらはいつも僕のジャマをする。

 

僕の未来に もう楽しいことは

二度と来ない。

 

楽しいことがあっても

あいつらがいる限り

 

そこには いじめという悲しみが

隠れている。

 

昔のように すべてを忘れて

 

楽しむことはできないんだ」

 

ところが 僕はこの時タマムシの返事から

 

これまでとは違った思いを持ったのです。

 

「僕の人生は さっきまで思っていたほど

 

悪くはないのかも。

だってタマムシを見ながら

思い出した楽しい気持ち

 

穏やかな気持ちの時は

確かにあったし 

これからもないとはいえない」

 

これまでのように

自分の人生を完全否定していなかったのです。

 

今までこういう気持ちに

 

どうしてなれなかったのだろうと 思いました。

 

この思いは その後 電車の旅の項で書いた

 

「今もいいから今もいい」という替え歌事件に

 

つながっていったのだと思います。

 

大人になると 子供の頃と悩みの種類は

 

異なってきます。

 

()に対して どうしてもっと

 

優しくしてくれないのだろう。

 

どうして もっと協力してくれないのだろう。

 

もっと 私に優しい人 

私を分かってくれる人がいるはず。

 

こんな夫()と早く別れてしまいたい。

 

反抗期に入った我が子に対して

 

どうして言うことを聞いてくれないんだろう。

 

誰が今まで面倒見てきてあげたと

思っているのだろう。

 

親の気持ちなどまったく分かってない。

 

どうしてこんなワガママな子になったのか。

 

子育て方法を間違えたのか?

 

こんなことなら 子供など いらなかった。

 

仕事場において 

何て自分勝手なことを言う上司なのだろう。

 

何て無責任な従業員なのだろう。

 

こんなに我慢するのならこの仕事をやめたい。

 

でもやめたら生活できない。

 

我慢するしかない。あ~、何て不幸なのだろう。

 

あ~ 子供の頃は こんな悩みがなくて良かった。

 

子どもの頃に戻りたい。

 

なんて具合に・・・・・

 

確かに子供の頃は 

こんなことは考えなかったでしょう。

 

ただ 子供の時代悩んだことと

今悩んでいる事の  

根本は同じことなのです。

 

そして 悩みでイライラした時に 

有効な対処の方法も同じなのです。

 

人間は 大人になっても 

 

さまざまな 不安 怒り 不満を

 

心に抱いて 生きています。

 

不安になっている自分

 

怒っている自分 

不満を持ってイライラ 

している自分をどうにかしたくて 

何かをします。

それでもなかなか気分転換できないことも

多いと思います。

 

また そう思うことで、それができない現状に

 

いっそうイライラがつのることすらあります。

 

たとえば旅行やコンサートに行って

 

気分転換したくても、時間やお金がなくて

 

行けない場合、それすらできないことに

 

不満が増すわけです。

 

そんな時 僕はタマムシから学んだことを

 

思い出しています。

 

人間はある意味 気分に流されて

 

毎日を送っていると

 

言っても過言ではないと思います。

 

本に書きましたが いじめにあっていた当時の僕は

 

自分の気分がコロコロ変わってしまうことに

 

打ちのめされていました。

 

朝元気に出ても、すぐに気分は落ち込み

 

息がつまり胸に痛みを感じる毎日。

 

どうして 気分が落ち込むのか?

 

今 嫌な事があったからだということは 

 

まちがいないのですが

 

今感じた「くそっ」「なにぃ~」「はぁ~」

 

などの嫌な気持ちを

 

繰り返したくないと思うからです。

 

嫌な思いを将来に向けることで生まれます。

 

人間 心に怒りが生じても

 

その怒りは 脳内で生じた化学変化ですから

 

時間とともに鎮静化されていきます。

 

しかし、怒りを呼び起こした出来事を

 

再び意識することで、

 

新たな怒りを生じさせてしまいます。

 

ですから 怒りを引き起こすマイナス思考を

 

再び意識しないように

 

上手くスルーさせていくことが

 

ポイントになります。

 

ところが 当時の僕の心の中では 

 

毎回ケンカが起こっていました。

 

「怒りを心の中から出してしまおうよ。

 

いつまでも怒っていては体によくないよ」

 

「うるさい、黙れ。そんなこと分かっている。

 

それができないから こっちは苦労してるんだ!」

 

落ち着こうとする自分に対して、

 

憎しみにとらわれたもう一人の僕は

 

怒りをぶつけていました。 

 

そんな僕が タマムシの返事で

 

何に気が付いたのかというと

 

「今が大事 今どうしたいかにしたがえ」

 

でした。

 

タマムシが「次はどこに行きたい?」

 

と問いかけてきた時、

 

どこへでも行ける自分が

ここにいるということに 

気がついたのです。

 

無意識に 将来辛い所にしか行けないと

 

決めつけていたけれども

 

そうでもなさそうだと思ったのです。

 

僕が動植物に話しかけていたのは

 

心に穴があいてしまったような感覚を

 

どうにかしたいからでした。

 

心が空っぽで とてつもなく

さみしさを感じるのです。

 

そう思うと 勝手に涙があふれ出し 

 

胸が締め付けられるように痛むのです。

 

未来に対しては 闇しか感じていませんでした。

 

でも この時 光もあると

 

希望を感じることができたのです。

 

「一寸先は闇なのか光なのか 

 

それは確かにまったく分からない。

 

でもどちらなのか 

決定するのは僕しだい。

 

闇と思えば闇、光と思えば光となる」

 

こう思えてからは 

 

マイナス思考にとらわれそうになった時

 

次のように 自分に 問いかけ、

 

言い聞かせるように なってきました。

 

「マイナスを考えてもいい。

 

考えるなということが無理。

 

でもマイナスにいても 

ちっともいいことはないんだ。

 

ここ(マイナス)に本当にいたいのか。

どうなんだ?

 

決定できるのは 

僕だけなんだ。

他人にはできない。 

他人のせいにするな」

 

このように 自分に問いかけることは

 

無駄ではなく 僕には効果的でした。

 

この問いかけに 素直に答えること。

 

これが 僕の対処方法になっています。

僕の素直な気持ちは

「ここにいたくない」だからです。

 

 

僕は その後 3年生になると

 

「幸せになりたいなら 今しかない」

 

ということを自分に言うようになりました。

 

これが電車の旅の項で書いた

 

「今もいいから今もいい」

という替え歌事件でした。

 

 いじめで死を望んだ経験がある人は

分かるでしょうが

 

「明日僕はここにいるのだろうか? 

 

ここにいたい・・・でも・・・」

 

自殺を取りやめて帰った僕は

 

いつもこう思っていました。

 

そんな中、僕は中巻①で書いたように、

 

机の上のカナブンの死がいから

 

自殺をしなかったとしても、

 

別の理由で死んでいるかもしれない

 

自分の命のはかなさを知ったのです。

 

それからの心の葛藤は 本に譲るとして

 

当時の僕は 過去と未来ばかり考えて

 

心を乱していました。

 

そんなある日、僕は電車の窓から

 

移り行く景色を見て

 

「生きているって一瞬の連続」

 

であることを感じ、

 

思わず「今もいいから今もいい」という

 

童謡「汽車」の替え歌を口ずさんでいたのでした。

 

過去にとらわれながら今この瞬間を

 

生きれば、過去に生きることになり

 

未来にとらわれながら生きれば、

 

未来に生きることになります。

 

人生というと過去・現在・未来という

 

3つの言葉が浮かびますが、

 

実際に生きていられるのは今だけなのです。

 

今という瞬間しか生きられないのが人生です。

 

この瞬間どんな意識を持っているかかが

 

何に生きているかを決定しているわけです。

 

僕らが実際に生きているのは今だけなのです。

 

「今しか生きられないんだ。

 

だったら今こそすべてなんだ。

 

幸せになりたかったら今が大切なんだ。

 

今思い通りにならなくても

 

今を力いっぱい生きれば、その今は

 

次の今がどうであろうと、

 

それを支える強い過去になるし、

 

次に来る今(未来)に対して 自信を持ってのぞめる

 

この意識が今まで僕を縛り付けていた

 

過去や未来の呪縛を断ち切っていきました。

 

それまでの僕は

 

自分の否定的な考えにとらわれ、

 

相手がどれほど悪いのか、その行動に理由をつけ、

 

自分の憎しみ、怒りに正当性を与えていました。

 

その理由づけのために

 

過去へ遡ったり、将来を思い浮かべていました。

 

過去の理不尽な対応を責めたり

 

明るい未来を壊されたと 文句を言っていたのです。

 

今どうありたいかより、過去と未来にとらわれ

 

こういう理不尽な扱いをされ

これからもされていく。

 

だから僕は不幸なんだと、 

不幸の中から抜け出られない自分を 

自ら強化していたのです。

 

心に浮かんでいる 

怒り・不満を捨て去ることが、

 

何か正義を曲げること、

負けを認めることのよう感じて 

できませんでした。

 

僕の心にはいじめて来る相手に対する

おごりがありました。

 

「こっちが正しいのだ。

おまえ達こそ 人間のクズだ。

 

そんなクズ野郎に俺はけっして負けないぞ。

負けてたまるか」

 

この思いが今を生きることを

ジャマしていたのです。

 

これが本に書いた

 

「おごりを捨てれば怒りは小さくなっていく」

 

という気づきでした。

 

本当に心の傷を治したいのなら

 

心を傷付けることを許してしまった自分を

 

受け入れ許してあげることです。

 

それができると、心に余裕が生まれます。

 

つまらないことは受け流すことが

 

できるようになってきます。

 

さて タマムシの返事は

 

「すでにケンちゃんが欲しいものは

 

心の中に持っているんだよ。良かったね」

 

に聞こえてきたのです。

 

何よりも心の平安が欲しいと願っていた僕。

 

ヤケドの顔が醜くい上、

バカだからいじめられるのだ。

 

もっと皆を引き付ける特別な能力が

手にさえすれば 

僕からいじめはなくなると 思っていた僕。

 

でもそんな能力はなく、もがけばもがくほど、

 

皆より劣っていると感じてしまっていた僕。

 

ところが 欲しいものをすでに持っていると

 

タマムシは言ってくれ、僕もそれを感じたのです。

 

それから 僕は自分が十分に持っていることに

 

どんどん気づいていきます。

 

気づくたびに 自信を手にしていきました。

 

欲しいものに とらわれていると

 

手に入らないことに イライラがましていきます。

 

しかし自分が持っているものに

 

意識を向けて それを十分に利用すると

 

今までできないと思っていたことが

 

たくさんできるのだということに気がついてきます。

 

足りないのではなく 持っているものを

 

十分に活用していなかっただけだったことに

 

気がつくと、不思議な事が起きてきます。

 

欲しくてたまらなかったものが 欲しくなくなり、

 

場合によっては 欲ししいものが 

 

向こうから近づいてきてくれるのです。

 

これは ウソではありません。 

 

これに気がついてから

 

僕の心も体も劇的な変化を見せたのです。

 

この経験がその後の僕に 困った時など

 

「僕は十分に持っている。僕の人生は素晴らしい」

 

って 口に出すことを させています。

 

口に出した時 困った状態であっても

 

何回も口にしてみること。これ大切な事です。

 

僕は いじめの期間 何万何千回と

 

僕の人生に未来はないと嘆き

 

「ちくしょうちくしょう」

 

と 口にしていたのです。

 

そしたら 本当に 心は闇にとらわれていました。

 

「マイナスを口にするからマイナスになる」

 

ならば反対に 

 

「プラスを口にすればプラスになる」

 

ということです。

 

一番のいじめっ子は自分自身なのです。

 

いじめが終わる頃 やっと気がついたことでした。

 

「生きている価値はない」「早く死ね」

 

などとは言われても、

 

何もそれを応援する必要などなかったのです。

 

「未来はない」と誰よりも決めつけ、

 

顔が醜いだけでなく、能力もないからだと

 

自分を責めていたのは 僕自身だったのです。

 

いじめに限らず、何かをやろうとした時

 

「無理無理、できっこない。

失敗したら笑われるよ」

 

などと反対する自分こそ、一番の敵なのです。

 

マイナス思考を感じたら 

意識を変換するクセをつけるといいのです。

 

「もし・・・・だったら幸せのはず 」

 

という否定的結論を

 

「もしもっとひどい条件だとしても・・幸せです」

 

という肯定的結論に変えるといいのです。

 

否定的な考えの時は 

なんとか上手くやろうとして 

自分に縛りを与えます。

 

自分を無理にコントロールしようとするので 

 

かえって息苦しさを感じます。

 

でも、肯定的結論に意識変換すると、

 

なすがままに ケセラセラで 過ごしていけます。

 

不思議と上手く行く毎日を

感じるようになってきます。

 

そして以前なら ムカッと来たり、

 

「あ~あ、ついてない」と

嘆いたことに対しても 

 

「まっいっか」と流して 

先に進んで行けるようになっていきます。

 

僕の幸せ指数は、

この意識変換を癖にしていくことで、 

別次元に行きました。

 

この変換が上手く行くようになってくれば、

 

家では夫()、子供の良い所を意識し、

 

思いやりのある言葉をかけ、

 

家族がいるから幸せであることを

 

感じていくことでしょう。

 

仕事も愚痴が減ってきて仕事があって良かった。

 

自分は一生懸命できる仕事があるだけ幸せと

 

考えていけるようになっていくと思います。

 

幸せは外側ではなく、内側にあるのですから。

 

本日 終了です。Kさん、読んでくれたかな() 

 

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キジの鳴き声

Mさん、先日はクリニックで

お会いできた嬉しかったです。

緊張して何を話して良いか分からず、挨拶しかできず、すみませんでした。そしてカイママさん、お元気ですか?

カイ君、ハル君とともに頑張っておられると思います。

さて読者の皆さまは、ゴールデンウィークいかがお過ごしだったでしょうか?

僕は二日の夜から新潟に帰省し、楽しい休みを過ごすことができました。

「ゴールデンウィーク」と言えば、

僕はある2つのことで「ゴールデンウィーク」を感じます。

1つは、タケノコ掘りです。

上越市にある父の生家の庭にある竹林にタケノコが出て来るので、

毎年掘りに行き、取ったタケノコを母が料理し食べるのです。

たくさん取れるので、余ったものは瓶詰にして、

コウちゃんや姉に持たせてくれます。

しかし、今年は忙しくてタケノコ掘りに出かける事ができませんでした。

それで何となく、物足りない感じがしていました。

そんな僕の気持ちを吹き飛ばしてくれたのが もう一つのことでした。

それはキジの声です。

キジの声はどう表現すれば良いのかよい言葉が見つかりません。

小学校の授業で、担任が生徒に問いかけました。

「日本の国鳥はケーンケーンと鳴きます。何だと思いますか?」

僕はてっきり鶴だろうと思っていました。鶴の恩返しなどのお話で、

きれいな鳥だと知っていたからです。

それか、もしかしたらカラスかなとも思いました。

カラスに対しては、今のようにゴミを食い散らかす害鳥的イメージは

ありませんでした。カラスよけに、案山子が田んぼに立っていたりは

していたけれども、童謡「七つの子」で、子供達には身近な鳥でした。

また、トキという鳥を当時の僕は知りませんでした。

日本の国鳥はトキでも鶴でもありませんでした。

意外にも桃太郎伝説で有名なキジでした。

僕は目を光らせました。

「キジってどんな鳥だっただろう? 本当にケーンケーンと鳴くのだろうか?」

興味津々でした。 無理もありません。

国鳥が僕の名前を2回も叫ぶというのですから。何となくうれしく感じたのです。

僕の頭に中では、いじめの期間自分を励ましてくれた「オオカミ少年ケン」の歌が

響き渡っていました。

「(走れよ)ケーン(ジャンプだ)ケーン」

久しぶりに物事を調べたくて学校の図書館に行きました。

2、3年前、神様がいるかどうか調べたくて、図書館通いした時以来でした。

(詳しくは拙著 楽になりたいなら生きていけ 中巻①)

調べると顔は真っ赤で鶏のよう、体は緑色のクジャクに似ていました。

「キジってこれかぁ~。見たことがあるような気もするけど、

はっきり覚えていないな。でも国鳥だけあって色々な色が混ざっていてきれいだな。

どんな鳥かは分かった。後は鳴き声だけだな。どこにいけば会えるのだろう?」

そんな思いを持ったものの、いつの間にか忘れてしまっていました。

それからどのくらいたってからでしょうか?

水田のあぜ道で遊んでいる時でした。ものすごく強い鳴き声を聞いたのです。

「おっ、キジか?」

水田で働いていたおじさんが腰を上げて当たりを見渡したのです。

するとまた絶叫するような鳴き声が聞こえてきたのです。

でも僕には「ケーンケーン」とは聞こえませんでした。

品のある鳴き声には思えませんでした。

思わず僕は見知らぬおじさんに聞きました。

「おじさん、あれ本当にキジの鳴き声なの?」

「ああそうだよ。オスはああやって大声で鳴くんだ。どこかに隠れているんだな」

「ふ~ん、メスは鳴かないの?」

「鳴くさ。ああいう鳴き声じゃない。ちっちゃな声で、スズメとひよ子の

あいのこ(中間)みたいなもんさ。あんな大きな声じゃないよ」

僕にとって、これがキジ(雄)の鳴き声を認識した、初めての時でした。

この力強いキジの鳴き声をこの十数年、

ゴールデンウィークで田舎に帰るたび聞いてきていたのです。

キジの鳴き声は、きれいとは言えないけど、ものすごく存在感のある声です。

鳴き声はもともと大きいのですが、さらに強く大きくなると、

ギーっと黒板をひっかく音から不快感とギーの音を取り去った響きが

混ざっているような・・・・とにかく聞いている人間の心の奥に

伝わってくる特異な振動を感じるのです。う~ん、上手く言えない。

ところで僕はゴールデンウィークに限らず、帰ると必ず庭仕事をします。

庭仕事が大好きな母が、手の届かない高木の枝切りや力仕事をするのです。

そんな僕が庭で仕事をしていると、突然鳴くのです。

きっとずっと近くにいたのでしょうが、最初は警戒して鳴き声をあげないようです。

僕が害を与えないと分かると、メスも安心して近寄って来るので、

鳴き声を上げるのでしょう。

きっと近くに来たメスに対して鳴くのだと思いますが、

その鳴き声が僕には、いつしかこう聞こえるようになりました。

「おかえり、ケーン」

全身全霊で僕に挨拶をしてくれているように感じるのです。

すると「ああ~、ゴールデンウィークだな~。帰って来たんだな~。

お母ちゃん元気ってことだな。良かった良かった」と思うことができるのです。

つまり、こうやって庭仕事をしているのは、母を喜ばしてあげたいからです。

その母が元気でいてくれるからこそ、この仕事ができているわけです。

キジの力強い鳴き声は、元気な母の象徴なのです。

だから力強い鳴き声を聞くと幸せな気持ちになれるのです。

今年はついに、鳴き声だけでなくその姿を見ることができました。

高い所にある枝を切るために台の上に登っていると、

目の前の草むらに赤いものが動くのが見えたのです。

注意深く捜してみるといましたいました。 まさに図鑑通りの雄キジでした。

柔らかい動きで、上下に首を縮めたり伸ばしたりして歩いています。

すると突然止まり、空の一点を見つめました。

僕は少し息を止め、いよいよ始まるであろう雄叫びの儀式を待ちました。

一瞬でした。素早く羽ばたき、

「ケェッー ケェー」

まわりの空気をつんざく鳴き声が響き渡りました。

すぐにもう一度、何度か羽ばたいて動きが止まりました。

キジは空を見つめてじっとしています。

「聞いてくれたかい? 俺のラブソング 」って感じで、胸を張っている様子です。

少しすると歩き始め再び同じ位置に来ると、同じように鳴きました。

また胸を張り、今度は周りを見渡しています。

その後は、まるで逃げるように草むらに走って、見えなくなってしまいました。

僕はとても満足しました。

60年生きてきて初めて、生で国鳥が鳴くのを目のあたりに出来たからです。

次の朝、日課である空手の型を行うために外玄関に出ました。

東京と違って、目の前には、母が20年以上かけてつくった庭の、

さまざまな花や樹木が咲き誇っています。

「おはよう。いつもお母ちゃんを楽しませてくれてありがとう。力いっぱい咲いてね」

目の前の景色にそう言うと、毎朝まず外に出て行う「転掌(てんしょう)」という

空手の型を始めました。

この型は息を強く吐き出すことが特徴です。邪気を吐き出し、新鮮な空気を取り入れ、気分を良くするには最適で毎朝やっています。

空を見て神様に一礼し、鼻から深く新鮮な空気を吸い込みます。

この時両手を顔の前で交差させ、右手で左耳、左手で右耳を挟むようなカッコを

とります。

吸い込んだ空気で、下っ腹、胸、背中と順番に膨らませるようにします。

目いっぱい空気を体内に入れ込むのです。

僕は両腕を振り下ろしながら、力強く長く息を吐き出しました。

「カァー~」

背中、胸、下っ腹と凹ませていき、吐き切った時は、下っ腹に力が入ります。

最後に短く、「カッ」と吐き切ります。再び下っ腹(丹田)に力を込めます。

はき切ると、胸を張り、背筋がピンと伸びます。

「こ、これは・・・キジの動き キジの鳴き方。まるでキジの呼吸だなこれは」

僕は思わず驚き、昨日見たかわいいキジの鳴く姿を思い出し微笑みました。

正直、初めて鳴き声を聞いた時「国鳥としては、もう少し美しい声で鳴いて欲しいな」

という気持ちがありました。大人になって絶滅危惧種トキが話題になった時は、

「トキが国鳥だったら、もっと大きな話題になっていただろうな」と思いました。

さらに優雅に飛ぶトキの映像を見て、「やっぱりキジは、国鳥としては役不足かな~」と思ってもいました。

キジも鳴かずば、撃たれまい(余計なことを言ったばかりに、災いが自分に降りかかる)のことわざも、その思いに加担していました。

その鳴き声の大きさから、自ら「猟師さんここにいますよ。撃ってください」と

教えてしまっている間抜けな鳥だと思っていたのです。

桃太郎の家来になる以外は、悪いイメージを勝手に持っていたのです。。

でもこれらの思いは、キジに大変失礼でした。

キジは「ケーンケーン?」と大声で鳴き、確かに猟師にはしとめやすい鳥かもしれませんし、間抜けにも思えてしまいます。

ですが、その声こそ国鳥にふさわしいのだと、僕はやっと知ったのです。

なぜなら、僕たちはこの世に出てきた時、全身全霊で生まれてきたことに感謝し、

新しい命の存在を知らしめるために、雄叫びを上げます。

その声は絞り出すような声です。決してきれいな声ではありません。

キジの鳴き声は、溢れんばかりの生命力の現れです。

人間が本当に感動するのは、見た目や声質、言葉ではありません。

一生懸命生きている生きざまです。その生きざまが発する波動です。

その姿を見た時、自身の中にある生命の根源が共鳴して震えるのだと思います。

「なるほど、国鳥にふさわしい鳴き声だな」

十分に美しい鳴き声だったことに気がついたのです。

鳴き声1つにも、全身全霊、一生懸命手を抜かず生きる。

「日本人よ、たくましく、元気にパワフルに生きろ」

と言ってくれているのだと思います。さすが国鳥なのです。

「転掌(てんしょう)」の型は覚えなくてけっこうですから

このキジの呼吸を朝10回やってみることをお勧めします。

きっと、あなたの体に生気が入り込み、 生命力発動スイッチが入りますよ。

 

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一期一会

 

カイママさん、最初から読んでくれているのですね。

 

ありがとうございます。感謝いたします。

 

感謝と言えば、

昨日ちょっとうれしいことがありましたので、

今日はその話にします。

 

書きかけの内容があったのですが、次回に回します。

 

昨日の帰り道、改札を出て、

 

駅の登りエスカレーターに乗っていると、

 

突然声をかけられたのです。

 

「すいません」

 

振り向くと、体格の良い黒人が立っていました。

 

キョトンとした僕を、

 

きれいな瞳で見つめています。

 

「はい?」

 

(・・・道でも聞きたいのだろうか?)

 

一瞬、英語が不得意な僕は不安になりました。

 

すると、太く大きな手が

 

握手を求めるように、動いてきたのです。

 

「えっ、この人は誰? 僕を知っているの?

(人まちがいしているのか? 

それとも前に会ったことのある人なのか?)

 

僕もつられるように、右手を伸ばしました。

 

一瞬握手をすると、彼は僕の手が下に来るように

ゆっくりと、手首をひねりました。

 

大きな手で、僕の手がほとんど見えません。

 

「大きな手だな~」

 

そう思った時、大きな手がパッとどけられました。

 

「これ」

 

彼はにこりと笑ったのです。

 

「あっ、ありがとう!」

 

僕は思わず叫んでいました。

 

彼は再び、ひとなつっこい笑みを見せると

 

足早に登りのエスカレーターを

 

登って行ってしまいました。

 

我に返った僕は、大きな背中に向かって

 

「サンキュー!」

 

と言いました。

 

彼は振り返ることもなく、

 

どんどん登って行ってしまいました。

 

僕は手のひらの5円玉を見て、

 

ふと、笑みが漏れました。

 

「5円玉だったのか。ついているな~僕って。

 

5円玉だから、もしかして、彼とは

 

またご縁があるかもな」

 

そう思いながら、見上げると彼はもう

 

一番上まで行っていました。

 

「少し急いでいるのかな。それなのに

 

拾ってくれたんだ。いい人だな~」

 

僕は改札口で、ポケットからスイカを

出す時、何か落とした気がしたのです。

 

財布と一緒にしているので、

小銭でも落としたのかと思いました。

しかし、音がしなくて、当たりを見渡しても

 

それらしきものを発見できませんでした。

 

気のせいかと思い、そのまま歩いていたのでした。

 

駅から出ると、牛乳を買いに

セブンイレブンへ寄りました。

牛乳の他にも、いろいろ買って、

会計に行くと1075円でした。

 

僕はポケットにある5円を出し、心の中でこう言ったのです。

 

「さよなら。良かったね、お金として使ってもらえて。

あの人のおかげだよ。君はついてるよ。

次の人に幸運を届けてね」

 

この5円玉がなかったら、僕は1100円を出して、

25円のおつりをもらっていたはずです。

 

つまり、僕は落とした時点で、

 

この5円玉を無駄死にさせていたのです。

 

それなのに拾われて、すぐに

 

小銭としての役目を果たすことができました。

 

とても運のよい5円玉だと思ったのです。

 

家につくまでの間、歩きながら、

 

なぜかしら、「一期一会」という言葉が

 

頭に浮かびました。

 

一期一会

 

一期=一生に、一会=一度しか会わない

「人と出会ったら、

一度限りの大切な出会いだと思って、

相手を思いやり、誠実な気持ちで、生きていきなさい

 

という教えだったと思います。

 

毎日会っていて、会うのが当然と思っている人でも、

 

いつ突然あえなくなるかなんて分かりません。
だから、いつ別れても心残りがないように

 

相手を大切にしなさいという意味の言葉です。

 

「人だけじゃないんだよな。

当たり前のように使っているものだって、同じだったんだな」

 

普段気にもとめずにいるけれども、

 

財布を開いた時、そこにいてくれる小銭達。

 

あるのが当然と使っている小銭。

 

だけど、あるからこそ

 

本当に助かっているんだよな。

 

そして使えば、また別の所で役立ってくれる。

 

なくてはならない存在なのですが、

 

普段は感謝などせずにいます。

 

「人も物も、どれだけ一緒にいられるかは分からない。

 

でも、一緒にいられる時間の長さに関係なく

 

大切なことは、相手を活かせるように

 

接していくことなんだな」

 

そのためには、こうやって

 

「当たり前は、実は当たり前でない」

 

ということを、思い起こすことは重要だよな。

 

はっ、時間も同じなんだな。

同じ繰り返しの毎日と感じていても、

その時間は二度と来ない大切な時間。

 

確かに、そうだな。

そうか、一期一会は、一瞬一瞬も一期一会。

 

人だけでなく、すべてに感謝して

 

それらを大切に生きていきなさいってことだったんだ。

そこまで考えたことなかったな。

 

拾ってくれた人に本当に感謝です。

 

彼に「ありがとう」と言ったら

 

5円玉にも、感謝の気持ちが湧き

 

一期一会について

 

今まで考えたことのないことを、

感じることができました。

 

これが「ありがとう」の力か? 

と感心しました。

 

感謝の連鎖を生んで、

自分が幸せだなと感じたからです。

 

彼に出会えたことを感謝します。

 

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失敗した時の立ち直り方

今回も悩むにあたっての考え方です。 

還暦になった日、『自分の存在意義』について考えた時、 

「時間の無駄だよ」って、

小さな僕が教えてくれたと書きました。

ただこれは、今の僕に対しての答えです。 

また矛盾していることを書くようですが、 

こういったことに考えることは、けっして無駄ではないと思っています。

 なぜなら、

 「前世の報いとして、いじめられる罰を受けるために生まれてきた」

「生きている価値なし、早くしね」

 の言葉に胸をえぐられていた小さい僕は毎日、

 「なぜ生まれてきたのか?」

 「生きることに何の意味があるのか?」

 「何か意味があって生まれたなら、僕はどこを目指せばいいのか?」

 「自殺するとどうなるか?」

 「僕はどうして、この両親のもとに生まれてきたのか?」

 「そもそも、僕は誰なのか? 大嶋健の前は何者なのか? 

それとも大嶋健として生まれ、死んだらもう二度とこういう意識はなくなるのか? 

もし、そうでないなら、僕はどこから来たのか?」、

 これらのことを考えていました。

 

そして気がついたことは、

 「生きることを暗く考えてはいけない。生きることは前に進むこと。

それなのに、とどまったり、後ろに行こうとするから苦しくなるんだ」

 「答えが分らない悩みの答えには、いくらでも答えがある。

 答えがいくらでもあるってことは、僕には無限の可能性がある。

 それなのに一つしか答えがないって、考えていることが

 間違いだったっんだ」

 ということでした。

 だから、僕が言う

 「答えのないことを考えることは無駄」とは、

 「可能性がいくらでもあることを、一つの答えにしようとすることが無駄だ」

 という意味なのです。

 決して、答えのないこと(答えがいくらでもあること)について考えることが、

無駄ということではありません。

 考えた時点で、答えがすぐ分かった人は、

 その段階で無限の可能性の中の一つを

 感じ取ることができているわけだし、

 とても幸せな人です。

 「自分は今何をすべきか」、あれこれと考えることは、

 大切なことです。

でも、この作業で

 「今まで自分は何をしてきたんだろう」とか、

 今の実生活に不満を抱いたり、

 現実逃避のために考えて時間を過ごすなら、無駄なのです。

 

さて、僕はこの時、もう一つのことを感じました。

 『人生は自分で作っていくものだ』ということを、

 しみじみかみしめたのです。

 おいおい、その歳になってようやくか。遅い!() 

 ほんとですね。

 でも僕には、 これだけの時間が必要だったということなのでしょう。

 あっ、そうそう、どうしてあの時気がつかなかったのだろうって、

 思うことがありますよね。

 こういう時、僕はすぐこう思います。

「まっ、このことがなかったら、

 まだ気がついていないわけだし、

 僕にはこれが必要な勉強時間だったってことだな」って。

 

悔やむより、こうとらえた方が僕にはあっているようです。

 そしてこう気づいたことについては、

 同じ過ちを犯さなくなっているので、

 「やっぱりそうなのかな~」って、納得しています。

 大切なのは、こう気づいてからだ思います。

 

気がつかなかった自分を責めるより、

気づいたことに感謝して、 前向きに生きていくことの方が、

 ずっと幸せになる事を意識することだと思います。

 

二者選択で悩むとは、どっちがより上手く行くのか、

 分からないということです。

 人生、2者選択の場合、その選択によって、 良くない結果が出ることがあります。

 「もし、あっちを選んでいたなら」

 と悔やんでしまうことって、よくあります。

 でも、その時、一生懸命考えて決めたのなら、

 その判断はどちらも正解って考えることで、

 僕は立ち直りを早くしています。

 常に100パーセントの正解を出せる人などいません。

 下の絵を見て下さい。現在A地点にいてBを選ぼうか、

 Gを選ぼうか迷っていたとします。

 この時点で答えがGであれば、Gを選ぶ方が良いわけです。

しかし、あなたはBを選び、僕はGを選びました。

 あなたはC→D→E→Fと進むしかありません。

Gにたどり着くまでには、遠回りをしています。

 Gを選んだ僕は、あなたがGにたどり着いた時には、

にたどり着いています。

あなたはその姿を見て、焦るかもしれません。

 「ああ、あの人あの時Gを選んだから、

 順調に進んでいるんだな~。ダメだな~、私って」

 ところが人生、何がどこで正解なのかは分かりません。

 実はGの後はHを選んで、Dにたどり着くが答えなのです。

 リードしていた僕は、Jを選んでNにいるわけです。

 一見順調に進んでいるように見えても、

 次の答えに対しては、遠回りをしているわけです。

 これに対してあなたはどうでしょうか?

 遅れてGにたどり着いた時、 自分が経験してきたDが答えだと

 すぐ分かりますから、Hすら通り越して、 一発でDにたどり着くことができます。

大逆転です。

僕はその後いろいろな道を通って、Dにたどり着きます。

 人生とはこんなものなのだと思います。

 だから、遠回りをしなければならなくなった時こそが、

 勝負の時なのだと思います。

 こういう時の僕の口癖は

 『こっちが次の近道、実は近道。だから諦めるな』です。

 2者選択で迷ったら、どちらを選んでも同じなのです。

 選んでやってみなければ分かりません。

 一生懸命考えた結果であれば、

 どちらも正解であり、今求めていることに対して

 早く到達するかどうかの問題だけなのだと考えると、気が楽になります。

 たとえ、遠回りの答えを選んでしまったとしても、

 目標を見失わず、目の前に現れた状況に対応していきましょう。

 そうすれば、必ず答えにはたどり着きます。

 そこで、「遅いんだよ~」って嘆くなかれ。

 すると、本当に次の答えも遠くなります。

 答えにたどり着いたら、こう唱えてみて下さい。

 『遠回りだったけど、実は次の近道。

 だからこれからは早いぞ』

 自分を信じて腐らず前に進んだ 自分を、まずほめてあげましょう。

 それによって、頑張った人生は、納得がいく人生になります。

 目標に向かって歩き続けたあなたは、

間違いなく、 幸運を引き寄せています。

 それなのに「もう遅いよ」って言うと

 自分の頑張りを、自ら否定してしまいます。

 だから、腐らず、諦めず、前向きに

 『こっちが次の近道、実は近道。だから諦めるな』です。

 

本日は ここでおしまい。

 

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正しく悩んで明日に感謝しよう

前回は悩むことは、無駄が多いと書きました。

でも、今回は悩むことは大切だという話です。

う~ん(?_?)って、思ってしまう方が

多くおられると思うので説明いたします。

僕は悩み方によっては、悩むことは無駄ではないと思っています。

いや、正しく悩んだ時、人間は成長するのだと思います。

僕は幼い頃、悩みに2種類あることを知ったのです。

その2種類とは、逃げるための悩みと進むための悩みです。

いずれにしても悩むことは辛いです。

人はなぜ悩むのでしょう?

今自分に起きている困ったことを解決したいからです。

これがスタートです。

当時に話を戻します。

いじめに悩んだ僕は、いじめだけでなく、

あまりに無慈悲ないじめを解決できない自分に悩み始めました。

自分がダメな人間に思えて仕方がなかったのです。

だから、なおさら相手を憎み愚痴を言うことで、

自分を慰めようとするようになったのです。

「僕は悪くない。なのに、ちきしょう。あいつら死ねばいいのに。

ふざけるな。死ね。死ね、死んでしまえ~。

俺の前から消えてなくなれ~」

って、延々と繰り返していました。

本題である「どうすればこの状態から抜け出せるか」については、

「どうせ言ってもやめないんだから」と、諦めていました。

そのくせ、「どうしてやめてくれないんだぁ~。反省しないんだぁ~」と、

わめいていたのですから(^_^;)。矛盾しています。

でも、それになかなか気がつけませんでした。

 

前向きに考えようとすると、

「いじめてくる相手の心を変えなくてはなくならない」

という、大きな壁を感じて、考えることができなかったのです。

この状態が良くなると信じることに、

強い精神力を求められている気がして、すぐ諦めてしまっていました。

これが逃げるための悩みです。

心に感じた不満をすぐに口にするだけで、

悩みと言っても、その正体は、

不安・憎しみ・怒りなのです。

何の解決もありません。

この悩み方は、不安・憎しみ・怒りの増加でしかないのです。

悩むことの目的、問題を解決する働きはどこにもないのです。

何とかしたいと悩んでいるつもりが、

ただの愚痴になっている自分を、長い間分からないでいたのです。

逃げるための悩みは、進むための悩みとより、ずっと楽なのです。

感情を吐き出しているだけだからです。

それだからこそ、ずっと長い間悩んでいられるのです。

これに対して、進むための悩みは、

問題を解決しようという働きそのものです。

最初はとても辛いです。

しかし、前向きに悩んでいると、

不思議なことに気持ちが元気を取り戻して来ます。

「ああしたい、こうしてみよう」とか、

やってみたいことがたくさんあったことに、気がつくからです。

こうなるとしめたものです。

心が生きていることを楽しむことに向かって行きます。

人間って不思議です。

楽しむことの方が、悩むことよりずっとしたいのに、

悩むことを選んでいることに気がつかないで、

「どうして苦しいんだろう?」って言っているのですから。

先ほども書いたように、逃げの悩みを続けるのは、

楽しむことを考えるより楽だからです。

このことに気がつくと、この悩みは元気がでるための悩みなのか、

無駄な悩みなのかを意識するようになります。

そして無駄な悩みだと分かると、

「もったいない、もったいない、時間を大切に使おう」と思えてきます。

良い解決策が浮かばなくても、少なくても、

マイナス思考の世界からは抜け出して、

時間を有意義に過ごすことができます。

小さな失敗を考えに入れれば、失敗のない日なんてありません。

だから、大きな失敗をしても、もう終わりだと思わないことです。

『終わったことは、諦めよう。だけど解決は諦めない。

きっと上手くいく』

これは弱気な僕が、失敗した時、いつも唱えるフレーズです。

ついでに、もうちょっと詳しく紹介します。

明日からどうしようと思ったら、こう考えてみて下さい。

「ああ、今日が人生最後の日でなくて良かった。

明日があるんだ。挽回して良く出来るチャンスがあるんだ。

だから今日は、そのエネルギーを蓄えるために良く寝よう。

いいことがある明日が待っている」って。

これ、僕が失敗した時、

小さい頃からやっている口癖です。

何度も高木に登り、飛び降りて死のうとした僕は、

「もうだめだ。ああ死にたい。せっかく生まれてきたのに残念だ。

でも苦しまずこのまま死ねれば」

と思って眠りにつくことが多かったのです。

ところが、次の日の朝、家族の笑顔に接した時

「死ななくて良かった。やっぱりこの家族が大好きだ」って、

そのたび思いました。

そして「頑張ろう」って決意して学校へ。

だが、また打ちのめされて飛び降りようと。

これを繰り返している間に、僕はしだいにたくましくなっていきました。

ケンカも強くなり、精神的にも前向きになっていきました。

すると一日生き伸びたおかげで、

少しずつ毎日が前進していることに気がついてきたのです。

いつしか僕は眠る前、こう思うように変わったのです。

「ああ、(この世が)今日で終わりでなくて良かった。

僕の一生が残念で終わらないですむ。

だって明日がある。

(状態はかわっていないけど)僕は少しずつ良くなっている。

明日が続けばきっといつか、乗り越えられる」

ピンチの時、嘆くよりも、明日があることに感謝しましょう。

 もう一つ、前向きに悩む手助けになる気づきがあります。

終わりのないことはない。

これは本で紹介しましたが、いじめの後で、気がついたことです。

これを知っていれば、どんなに楽だったかと思いました。

だから今いじめで苦しんでいる人は、

そのいじめは、いつか終わることを、知って欲しいと思っています。

これはいじめに限ったことではありません。

失敗した日は、その日で終わるのです。次の日は違う日なのです。

そうです。前に進む日なのです。

それなのに失敗した自分を責め続けていると、

いつまでもそのことに気がつきません。

失敗したら、自分を卑下してもいいです。

でも、卑下しながらも、

その1日を頑張って生きた自分は、認めてあげたいものです。

よく今日耐えてくれた。明日につなげるよって自分を元気づけましょう。

それができるようになってきてから、

僕はあまり悩み続けなくなりました。

僕は今も、上手くいかないことが続いた時は、

この気づきを口にして自分にいいきかせています。

今日は ここで終わりにします。

 

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悩んで将来の自分を励まそう

 

この間3回目の成人式を迎え、人生を振り返った時、

『自分の存在意義』ってなんだろうと、

幼い頃、毎日のように考えたことを、久しぶりに、ふと考えてみました。

でもすぐやめました。

小さい頃の僕が

「時間の無駄だよ。考えた瞬間、パッと感じて答えがでないなら、

答えは出ないよ」

って耳元で教えてくれたからです。

 

いやいや、人生の意味を考えることには意義がある。

幼いから答えがでなかったのではと考える方も、いらっしゃると思います。

すぐ答えが見つかる人は、それでいいのです。

きっとそれが答えですから。

ですが、無理に意味を考えなければならないなら、

完全に無駄だとは言いませんが、

結局、 『答えがいくらでもあることに答えはない』

と気づくので、このことを考えすぎることは無駄だと言いたいのです。

どうしてこう考えたか興味のある方は、僕の拙著をお読み下さい。

 

当時の僕は何で生まれてきたのだろうと悩んでいました。

「おまえは、前世で悪いことをしたから、その報いを受けるために

生まれて来たんだ。その目印がその醜いヤケド。

だからいじめられることこそ、おまえの役目。

いじめに逆らうなんて、また罪を犯すこと。

今度生まれ変わっても、もっとひどい運命で生まれて来るんだぞ」

 

こんなバカげた言葉を、何度もいじめられているうちに、

幼い僕の心は受け入れてしまっていたのです。

毎日、「こんなことなら生まれてこなければよかった。

どうして生まれて来てしまったんだろう」と悩み、

植物や虫達に話しかけていました。

そして答えを見つけようと耳を澄ましていたのです。

その一方で相手を心底憎んでいました。

ブログのデスノートに書いたように、僕の心はたびたび、

魔界にすら足を踏み入れていたのです。

相手を殺すことを想像し、ひたすら喜んでいたのですから。

 

僕は悩んでいた当時、悩む自分が大嫌いでした。

隠れ家で、何時間も憎しみの言葉をつぶやき、

時には絶叫する自分が惨めで仕方がなかったのです。

でも悩みに2種類あることに気がつき、

「悩むなら、前向きに悩もう。そうすれば必ず元気が出て来る」と、

悩む自分のことが、まんざらでもなくなってきました。

前に進もうとしている自分を、

以前の自分と明らかに違うと感じていたからです。

自分が成長していることを感じていたのだと思います。

楽になりたいなら生きていけ五巻に書いた、

元気が出る悩み方は、

そんな僕が気づいた悩み方をいくつか書いたものです。

まあ、今は絶版、いつか校正して出版予定ですが、いつになるやら()

 

今考えると、いじめの2年間、僕は小さな哲学者でした。

そして、真剣に悩んだ分、その哲学者が得た気づきに、

今は驚くべき信頼感を持っています。

だから、今は当時頑張った僕が大好きです。

幼い自分なのに、僕の心の師なのです。

その心の師がいろいろなことに、声をかけてくれるのです。

だから、悩むなら、将来の自分を元気づけてくれる

自分をつくるために悩みましょう。

 

能天気な僕も、僕なりに、今だっていろいろ心配はあります。

でも、悩み始めると、その多くに

「あっ、これは無駄」とすぐ思えるのです。

とても切り替えは早いです。だから長々とは悩まない。

どうして切り替えが早いかというと、昔の僕が散々と悩み、

本当に無駄だと理解しているからできるのだと思います。

だから、昔、悩むことに時間を費やしてくれた自分に感謝しています。

その自分がいたからこそ、今は無駄に悩むことがないのですから。

 

特に悩みの対象が人間の場合、

相手を変えることはとても難しいものです。

ですから、こういう相手のことで悩むのは、

本当に時間の無駄なのです。

(偉そうに言っていますが、本に書いたように、こう言えるまでは大変でした)

 

けっして悩みが解決するわけではないのですが、

この切り替えが早く出来ると、気持ち良く過ごす時間が増えるので、

ありがたいものです。

 

時間を大切して生きるとは、今を生きるということだと思います。

時間に取り残されないで生きていくことです。

時間は待ってくれません。

前進する時の流れに食らいつき、

心を前向きにして生きて行かなくては、

過去に生きる人になってしまいます。

ではどうすれば、今を生きて行けるのか?

 

今に生きられない最大の原因、

それは過去にとらわれてしまうことです。

まずは、辛かった過去を切り離すことです。

そのためには、失敗してしまった過去の自分を

責めることをやめることが第一歩です。

「どんまい、しかたがないさ、そんなこともあるよ。

失敗のない人生なんてないんだ。

死んだわけじゃないだろ、チャンスはいくらでもある。

修正して生きていけばいいだけ」と、

自分に声をかけることが大切だと思います。

 

そしてもう一つ、楽しかった時間も切り離すことです。

「昔は良かったな~。あの時代に戻りたい」といくら願った所で、

時間は巻き戻らないことを意識することです。

 

人間、悩みは尽きませんが、そのほとんどは3年後も

同様に悩んでいるものではありません。

それが分かると、一つの悩みに、いつまでもこだわることは、

とてももったいないことだと思えてきます。

どんどん無駄な悩みは、消していきましょう。

深刻な悩みは無駄が多いと、

その重みもプラスされて、いっそう心に、

ズシリとのしかかります。

重さを勘違いしてしまうのです。

辛さが何倍にも感じられるはずです。

無駄な悩みは、重要な悩みを

前向きに考えるのをジャマします。

思考回路が狭くなります。

心をできるだけ軽くして考えましょう。

思考回路が広くなり、良い考えが浮かびやすくなります。

そうすれば、深刻な悩みも、3年後、今より軽くなっていると

感じていると思います。 

次回は、幼い僕が気づいた悩みの2種類について書こうと思います。

 

 

 

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還暦からのアドバイス

 

今年初めてのブログの更新です。

 

久しぶりに開いてみると、カイママさんから

誕生日の祝福コメントがありました。

ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

2/2の朝、ついに還暦を迎えた僕は、母に、毎回の誕生日のように、

「ありがとう」メールを送り、母に感謝を伝えました。

母は朝早くから電話をくれ、60年前の話を懐かしそうに話してくれました。

 

そんな母の言葉を聞きながら、60年という時の流れる速さに驚き、

無事に生きてこられたことに対して、神様、ご先祖、両親に

感謝の念を感じないではいられませんでした。

そして60年、最も身近にいて僕を支えてくれたコウちゃんに、

「コウちゃん、ありがとうね。宇宙1の弟だよ。ずっと一緒だよ。

二人でお母ちゃん守って行こうね。これからもよろしくね」

とメールを送りました。

 

もちろん、コウちゃんも同じ気持ちで、同じ返事が返ってきました。

 

還暦を迎えた朝、いつも通りに感謝の祈りを終えた後、

「さてあと、40年どう生きていこうか?」

 

ふと、そう思いました。

 

「とにかく健康だな。名前の通りになるってこと」

 

あとは「う~ん、年金だけでは、きついな~。何とかしたいな。

まっ、朝からこんなことは考えないでいいな。

今日はとにかくいつも以上に感謝の念で生きて行こう」

 

経済的な事とか、将来のことを考えることは大切です。

 

ただ、あまり先のことを、あれこれ考えない方がいいと思います。

 

いろいろ考えて、綿密な計画を立てたとしても、

 

人生、何が起こるかなんて、分からないのですから。

 

逆に言うと、それだからこそ、人生なのだと考えた方がいいです。

 

人はこれからのことを考えすぎると、

 

どんどん不安になっていきます。

 

ましてや、大切な人の将来などを考えると、

 

どんどん不安になっていきます。

 

自分のことですら、どうなるか分からないのです。

 

他人に対して、そこを心配し過ぎると、さらに不安が募ります。

そして現実と未来の希望に差を感じてしまうと、

今度はイライラしてきてしまいます。

 

考えてもいいのですが、そのやり方を間違うと、

 

どんどん自分から元気がなくなっていきます。

 

()であれ、子供であれ、恋人であれ、友達であれ、

 

その人たちの、将来の幸せを考えるなら、

 

今の自分が元気であることが一番です。

 

それがその人たちにとって、今一番必要な姿なのです。

 

元気をなくした自分が考える未来は、ろくなものではないのです。

 

マイナスエネルギーで描いた未来は、

 

マイナスエネルギーが満ちた未来なのです。

 

自分が今生きるために持っているエネルギーを、

思念の中で未知の世界に送り込み

 

不安というエネルギーに変えてしまうのです。

僕はいじめられていた約2年間

 

そういった世界にどっぷりつかり、不安な毎日を生きていました。

 

でも、ある日あることに気がついたのです。

 

当時(5253年前)お諏訪さんと呼んでいた神社横に

 

短い背丈の草花が美しく咲き誇る空間がありました。

 

ここに寝そべってしまうと、

 

外から見れば僕の姿は草花に隠れて、見えなくなります。

 

天気が良くて、草花が生い茂っている時は、

 

ここでよく寝そべって寝ていました。

 

ここで、目を閉じて耳を澄ましていると

 

心地良い太陽の日差し、風の感触、草花の匂いが、

 

僕を深く短い眠りに誘いました。

 

つまりここは、僕のうたたね場所だったのです。

 

ところがある日を境に、

ここは特別なエネルギー充電場所になったのです。

 

ある日、うたた寝から目が覚めて、空を眺めていました。

 

青い空や雲をぼんやりと見ながら

 

「ここで眠ると、なぜかぐっすり眠れて、元気をもらえた気がするな。

どうしてだろう?」

 

首を回すと、周りには、色とりどりの草花が輝いていました。

 

「でもここも、もうすぐ枯れちゃって眠れなくなるな~。

冬になれば雪に埋もれちゃうんだぁ~。残念だなぁ~。

でも、だから花を咲かせることができる今、

これだけ力いっぱい咲いているんだな~。

ここにいると草花が、生きている~って喜んでいるのが分かるし、

その元気を僕にくれているから、僕も元気になっているんだ。

ありがたいな~」

 

そんな思いで、また空を眺めていました。

 

「僕は生きているけど生きていない!」

 

つまり、今を生きていない自分に、はっとしたのです。

 

いつも僕は、先のことばかり考えていました。

最初はいいことを考えるのです。

 

しかし、以前の失敗や悲しい体験を思い出し、再び考えると、

 

「そんなにいいこと起こるわけがない。きっと相手はこう出て来るだろう。

そうしたらこうなる。そして・・・・」

 

と、次から次へと、負の未来を思い浮かべて、

不安の中でもがいていました。

 

積極的に生きるとは、何が起こっても、

 

自分で対処して生きていけることだと思います。

 

自分で対処するとは、自分だけの力で

 

解決するということではありません。

 

必要であれば、適切な相手を選んで

 

助けを求めることも、自分で判断して生きていくことです。

 

あくまでも、最終的には、自分で判断し、

ある時は受け流し、ある時は辛くても受け入れ

 

少しずつでもよいから、前進していくように生きていく。

 

たったこれだけのことなのですが、これがうまくいかないでいるのです。

 

今思うと、当時の僕は野山でただ咲いている草花や動き回る虫から、

特別な力をもらっていました。

特にこの秘密のエリアは、元気がなくなった僕が、

元気をもらう場所になっていたのです。

 

僕は咲き誇る草花の生命力を感じるたび、

自殺をたびたび考えた自分の本心は

「やっぱり僕は生きていたいんだ。僕は生きたいから生まれてきた。

すべての生物は、ここにいる草花のように、生きたいから生まれ来たんだ」

 

と感じることができたのです。

 

「ここに咲いている草花、頼りになるのは自分だけ。

誰も助けてくれないと文句なんか言っていない。

根っこから水や養分を吸って、地上では光を吸収して生きている。

ただただ、生きていることに感謝して、力いっぱい咲いているだけ。

でも自分で生きているから、誇らしげ。だから幸せなんだ」

 

60年間を振り返ってみて

 

「ああ~、あの秘密の花畑で感じた通りだな~」

 

と、感慨深く感じています。

 

生まれてきたのだから、やはり生き生きと、生きていきたいものです。

 

そのための第一歩こそ、今を生きることなのです。

 

今を生きるために必要なもの。

それは、あまりに当然のことなのだと、僕は考えています。

 

『自分の人生は、自分で決断を下せ。下した判断に言い訳をするな』

 

ということです。

 

今を生きるとは、自分で決断を下し、責任を取って生きていくことです。

 

人生ではいろいろな場所で、重大な選択を迫られる時が訪れます。

 

こんな時、より良い選択をするために

 

いろいろいな人達に、アドバイスを受けることが、

必要なこともあるでしょう。

 

ただ、アドバイスを受ける時、大切なことは、

 

あまり多くの人達に相談しないこと、さらに相手を選ぶことだと思います。

 

特に気を付けたいのは、アドバイス好きな人です。

 

一見、頼りになりそうで、いろいろな人がアドバイスを受けているので、

 

相談してみたくなってしまうかもしれません。

 

中には、「大丈夫~」とか言いながら、近づいて来て、

勝手にアドバイスしてくる相手もいます。

 

こういう人は「こういう時はこうしなさい」と、

やたら干渉して来るようです。

そしてこういう人は、自信家で気の強い人が多いようです。

 

相談相手の気が弱く、本当に困っていると、ますます干渉して来ます。

 

でも、それに従っていると、自分で生きていないことになります。

 

時々宗教集団や占い師による洗脳が問題になりますが、

 

このような干渉好きな人のアドバイスに従うことは、

 

洗脳されているに近いものだと思います。

 

アドバイスとは、アドバイスする側の

 

経験に基づくものであり、

 

あくまでも、当事者にとって、ヒントの一つに過ぎないのです。

 

そのアドバイスが、絶対ではないのです。

 

どうしても納得できない時は、従う必要は、まったくないのです。

 

よく「私のアドバイスに納得できないの? 

それこそ今のあなたの不安を生み出している原因。

だから上手くいっていないのよ。現実を見てごらんなさいよ。

私に従っていればいいの。

皆、私のアドバイスに従っているから上手くいっているのよ」

なんて、強気のアドバイスをしてくる場合もあるでしょう。

こんなアドバイスは、特に無視していいものです。

当事者が感性で不快と感じるアドバイスの多くは、

当事者の長所を否定したものなのです。

 

人生は、どっちを選んだ所で、同じ結果になることがほとんどです。

 

どっちを選ぼうと、こうしたいという目的がはっきりしていれば、

そこにたどり着くようです。だからどっちを選んでもいいのです。

大事なのはその選択に対して自分で対処していくという行動なのです。

 

自信が持てないからと、自信を他人に求めても、

絶対に求める自信は得られないことを自覚しておく必要があります。

 

人の考え方を参考にしようとインプットしすぎると、

混乱してますます自分の本当の気持ちが否定され、

決断がしにくくなってしまいます。

 

ネット社会においても同じではないでしょうか?

心配事に対して、ネットなどで情報を集めれば集めるほど、

不安になっていくと思います。

 

元気がない時は、今を生き生きと生きている人、

 

今最も生命力を放っている自然に、触れることが良いと思います。

 

大好きな芸能人のコンサートに出かけ、今を輝いている芸能人や

 

そこに集まるエネルギーに触れることも、素晴らしいことだと思います。

今なら、寒椿、アネモネなど季節の花を見に行くのもいいと思います。

僕は植物園に行くのが好きです。

こういった行動をとると、自分がくよくよ悩んでいることが、

無駄であることに気が付くことがよくあるのです。

前のブログにも書いたと思いますが、

今自分に起きている良くないと思えることの原因を

あれこれと探しすことは、疲れるだけなのです。

それより、身近な目的を持つことです。そしてそれを実行すること。

これだけで、人生が好転していくのです。

またまた思いつくまま打っていたら、長くなってきたので、やめにします。

 

皆さま、本年もよろしくお願いいたします。

 

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クリスマスに思う事

 

今年もあっという間に過ぎ去ろうとしています。

 

おそらく、これが今年最後のブログだと思います。

 

読んで下さった皆様、ありがとうございました。

 

インフルエンザ、ノロウィルスが

 

猛威を振るっていますが、

 

体調管理に気を付けて、良い正月を迎えましょう。

 

としこさんコメントありがとうございます。

 

Youtubeで聴いてみましたか?

 

でもあまりに多くのウルトラマンがいることに

 

唖然としたのではないですか? 僕も驚きました。

 

ちなみにYoutubeのロングバージョンで

 

ギンガと一緒に戦っている

 

頭にvが付いているウルトラマンは

 

ウルトラマンビクトリーっていうらしいです。

 

それから頭に二つアイススラッガーがついている

 

ウルトラマンは、ウルトラマンゼロといいます。

 

なんとあのウルトラセブンの息子で

 

めっちゃくちゃ強いらしい。

 

なんせウルトラの国(M78星雲 

 

オリオン座近くに実在)

 

悪いウルトラマンベリアルによって

 

滅亡寸前まで追い込まれた時、

 

このゼロが活躍してウルトラの国を救ったそうです。

 

すべて 例の小学生から 教えてもらいました。()

 

いやはや、知らない間に いろいろな事が

 

ウルトラマンにも起こっていたんですね。

 

昨日はクリスマス。 そして 今日 帰りに 池袋で 

 

年賀状を 買い 街に出ると  キリストの教えを

 

スピーカー放送していました。

 

「聖書は 言っています。 人は すべて 罪人だと」

 

信号待ちをしている間に 聞こえてきました。

 

「まあ、そうだろうな」

 

と、 思いながら 小学校時代の 

 

クリスマスを 思い出していました。

 

毎年 クリスマスツリーを 飾っていました。

 

最先端にある ベツレヘムの星をつけながら

 

この星はキリスト様が 生まれた星、

 

つまり、神様が住んでいる星なんだと 思っていました。

 

ベツレヘムの星について 詳しいことは 知りませんでした。

 

3人の賢者が東の国では 見たことのない星を西の空に見出し、

 

追いかけてベツレヘムに来ると キリストを抱いたマリアがいた。

 

という話は、中学校の時 聖書に関する本を読んで知りました。

 

おそらく 小学校の時も 絵本に 書いてあったのでしょうが

 

記憶に 残っていませんでした。

 

賢者たちから 自分にとって代わる赤子が生まれたことに 

 

怖れを抱いたヘロデ王は、2歳以下の赤子を

 

殺すように指示を 下します。

 

しかし、すでに天使のメッセージを受けていた

 

父ヨセフの機転で、幼子イエスは

 

母マリアと共にエジプトに脱出して 助かったのです。

 

さて、クリスマスは キリストの誕生日を祝う日として

 

世界中に知られています。

 

が、本当は、誕生日を祝う日ではなく 

 

イエス様がこの世に誕生したことを祝う 感謝の日のようですね。

 

30年程昔、生徒に

 

「よくイエスの誕生日が12/25日だと分かったね。

 

記録でも残っていたの?」

 

と聞かれ、調べたことがあったのです。

 

「あっ、ほんとだ。誕生日ではないんだ」

 

だと知った次第。

 

聖書の中にも記述はなく、 本当の誕生日は分からないんですね。

 

馬小屋で生まれたのも嘘だという本も、

 

さらに イエス・キリストは  存在していなかったのでは

 

なんて本も 読んだことがあったような・・・・

 

ただ、放牧をしていた時期に生まれたのは 確かなので、

 

春から秋にかけて(大雑把(^_^;)) 生まれたらしいです。

 

何よりもその時、「面白いな(@_@)」と 思ったのは、

 

イエスは双子で 処刑されたのは

 

双子の弟だったという説を 読んだ時でした。

 

僕は『楽になりたいなら生きていけ 中巻①』

 

の書いたように、小学校当時キリスト教が好きでした。

 

マリア園という キリスト教幼稚園に 入園してから

 

ずっと お祈りをしてきました。

 

そして、いじめから自分を救ってくれない

 

イエス・キリストを始め、世界中の神様を 否定しました。

 

そんな中で、 自分の神様を作り出しました。

 

その後、一度捨てた キリストへの思いも 蘇りました。

 

それは キリスト信仰ではなく キリストの説く 愛の意味は

 

僕の信じる神様と 同じなのだろうという意味です。

 

詳しくは 本をお読みください。

 

キリストを 否定するとか 上から目線で そう感じたのでは

 

ありませんでした。

 

さらに中学校の時、小学校では 絵本でしか読んだことのない

 

聖書の実物を拾い読みし、衝撃を受けました。

 

なぜ、聖書を 読んでみる気になったのか

 

当時 ふと いじめの期間 思ったことを

 

思い出したのです。

 

「命あるものは 死ぬ直前に 感謝して 死ぬことができれば

 

幸せなんじゃないだろうか?

 

どんなに 辛い人生であっても 

 

本人が 僕は よく頑張ったと

 

自分を ほめることができれば 幸せなのではないか。

 

そうだ! イエス・キリストは 最後に 何を 思ったのだろうか?

 

弟子に裏切られて 捕まり 十字架にかけられた。

 

でも おそらく 最後は

 

「神様 私は 頑張りました。 神様のお役に立てたとしたら 

 

幸せです。こうして 私を十字架にかけている彼らは

 

何をしているのか 分からないのです。

 

だから 我が子(神の子)を 処刑している 彼らを お許しください。

 

今 私が死ぬことで 彼らが目を覚まし 神様の元へ 

 

向かうことができたとしたならば

 

こんな 幸せはありません。 命をありがとうございました」 

 

こう 思って 死んでいったのだろう。

 

小学校の僕は そう思っていたのです。

 

それを確かめたいと 思ったのです。

 

しかし マタイによる福音書に書いてある

 

イエス処刑の部分は こんな感じでした。

 

ある金曜日   場所はゴルゴダの丘、

 

はりつけにされてから 数時間が経ち お昼になりました。

 

当たりは、真暗になります。

 

このような記述と 地中海地方の当時の天候から考えて、

 

ある金曜日は 4月7日当たりだ と言われていますが、

 

定かではありません。

 

4月3日という説もあります。

 

僕らは まあ、4月の初め頃 と思っていれば

 

いいのではないかと思います。

 

金曜日なのは、記述から確かみたいです。

 

余談ですが、よく不吉だという13

 

『最後の晩餐』の時いた人数が 13人だったから

 

という説があるようです。

 

だから高校の時13番だった僕は、

 

「うむむむ・・・いかす出席番号じゃん(^_^;)・・・」

 

と 一人少し落ち込んでいました。

 

ジェイソンで有名な映画『13日の金曜日』 の

 

不吉な13日と金曜日は ここからきているとか。

 

あっ いけない。イエスの処刑の場面でしたね。

 

ゴルゴタの丘で十字架にかけられた男3人。

 

真ん中の十字架がキリスト 両脇は強盗を働いた男二人です。

 

民衆は はりつけにされたキリストに向かって こう ののしります。

 

「他人を救っても 自分を救えない 哀れなユダヤの王よ。

 

神の子なら そこから自分を救って見せろ」

 

「神の子なら 神様を呼んでみろ。それができたなら

 

おまえを信じてやる。 さあ やって見せろ」

 

さらに 一緒に はりつけにされている 強盗二人までもが

 

 同じように イエスを ののしります。

 

イエスは絶叫します。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

「神様、神様、なぜ私をお見捨てになったのですか?」

 

という意味であると書いてありました。

 

神様に対するキリスト最後の言葉が

 

これなのか? 明らかに 神様に 失望している。

 

やりきれない・・・・・ 切ないものを感じました。

 

そして どこかで 聞いたことのある言葉だと 思いました。

 

民衆の一人が 海綿にブドウ酒を含ませ

 

棒の先端につけて イエスに 飲ませようとしますが 

 

引き留められます。

 

「待て! きっと 今 キリストは 神に救いを求めたのだ。

 

神が助けに来るか 様子を見てみようぜ 」

 

しかし、神はイエスを 助けには 来ませんでした。

 

イエスは 再び 同じことを絶叫し 

 

そのまま 午後3時頃 息を 引き取ります。

 

すると 神殿の垂れ幕は 真っ二つに引き裂かれ

 

地震が起き 岩が裂け 墓からは 聖徒が 生き返った。

 

このような事が 書いてあったと 記憶しています。

 

「最後に 最も 信頼していた神へ 訴えたこの言葉。

 

まさか これは どんなに祈っても いじめをなくしてくれない

 

神様に対して 僕の祈りは聞こえていないのですか? 

 

どうしてこんなに真剣に 祈っている僕の言葉を

 

聴いてくれないのですか? なぜです? 

 

なぜです? どうしてですかぁ~」

 

あの時の僕と 同じ事? 

 

まさか 世界の聖人の最後の思いが

 

こんな 思いだなんて・・・・・そんなはずないよな。

 

だったら この言葉の意味は どういうこと? 

 

まさか キリスト自身 死ぬ直前幸せでは なかったのか? 」

 

中学生の僕にとって 切実な問題でした。

 

当時の僕は 人が幸せに 死ねる=力いっぱい生きること

 

と 考えていました。(今もです)

 

小学校の時 悩みの中で 見出したこの答えは

 

受難の中 死んでいった キリストが

 

証明してくれるだろうと 確信していたのです。

 

それなのに キリストの最後の言葉は

 

神様を 恨むような 言葉でした。

 

僕には 納得のいかない言葉でした。

 

キリストは 神様に納得して 死んでいかなかったのか? 

 

それでは 幸せとは いえないのではないか。

 

興味を持った僕はその後 キリストの生涯を

 

書いた本を 捜しました。

 

聖書ではなく キリストについての本でした。

 

読むと キリストの叫んだ言葉を

 

「エロイ、エロイ、エマ、サバクタニ」

 

と 書いてあるものがありました。

 

この時僕は 、初めて 聖書で

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

を読んだ時 どうして どこかで読んだことがあると感じたか

 

答えが出ました。

 

僕は 次の呪文と 似ていると感じていたのです。

 

 「エロイムエッサイム エロイムエッサイム

 

我は求め訴えり!」です。

 

これは 水木しげる先生の 代表作の一つ

 

『悪魔くん』で 主人公が 悪魔を呼び出す時に使う

 

有名な呪文です。

 

きっと 水木しげる先生は イエスの 全身全霊、震えるような

 

真剣さを 表したかったのでは ないかと感じました。 

 

( ・・・・ああ~ 悪魔くん 読み直したくなったな~。

 

よく 覚えていないけど 僕を とても 不思議な

 

世界へ 連れて行ってくれたマンガでした。)

 

話戻します。

 

エリ(エロイ)は 上に存在するという意味で、

 

一般には『神様』を意味するのですが、

 

イエスが双子で 処刑されたのが 弟であるならば

 

エリ(エロイ)は 叫んでいる本人の上に存在する

 

『兄』を意味するとも 考えられるというのです。

 

すると イエスの絶叫は

 

「兄さん、兄さん、 どうして私を見捨てるんだぁ~! 

 

神の子なら 助けてくれ~」

 

とも 解釈できるというのです。

 

はりつけにされたのは 身代わりになった 弟だというわけです。

 

では その弟とは 誰か?

 

それは 十二使途の中の トマスという人物です。

 

そして そのトマスは  イエスの処刑の後

 

インドで 布教を開始しますが インドで 4人の兵士に 襲われ

 

 槍で突きさされて 死んでしまいます。

 

もし、トマスと入れ替わっていたとしたならば

 

イエスは インドで殺されたことになります。

 

しかし 入れ替わったとしたなら 聖書の中での

 

トマスは 我々がイメージするイエスとは かけ離れています。

 

わざと そうふるまったのかも しれませんが・・・

 

トマスは とても 疑い深く イエスが 最後の晩餐で

 

(この時点ですでに 入れ替わっていたのかな~)

 

「死んで蘇る」と言っても信じず

 

蘇ったと 他の弟子が話しても 

 

信じない弟子だったと書いてあります。

 

(もし、 入れ替わっていたとしたなら

 

それは 信じられませんね。身代わりになった

 

弟が蘇ったなんて言われても・・・・ )

 

そして8日後 再び トマスを含めた 弟子達の前に現れたイエスが

 

身体を触らせたことでやっと

 

「おお~ 我が師よ」 と 叫びます。

 

(入れ替わっていたなら おお~ 弟 すげぇ~ 我が弟

 

ワンダフル! ほんとに 奇跡を 起こした。 これも 神の御業か

 

と 感動しただろうな~ )

 

これに対してイエスに

 

「わたしを見たから信じたのか。

 

見ないで信じる人は、さいわいである」

 

と たしなめられます。

 

(入れ替わっていたならば・・・

 

弟にこう言われたことになります。

 

しっかりしてよ、兄さん 僕を 見たから

 

信じるなんて 兄さんらしくないよ)

 

さらに イエスの母マリアの魂が、

 

死後肉体に宿り(さすがです。

 

蘇ったのは イエスだけではなかったのです)

 

そのまま昇天していったと時も 

 

なぜか 一人だけその場にいないのです。

 

その後 再び現れたマリアが トマスに 信じさせるためにか

 

腰帯を解きながら昇天し トマスに与えた

 

・・・・だったような。すいませ~ん、うる覚え。

 

なぜ トマスは 大事な時 

 

いつも その場にいないのだろうと 疑問でした。 

 

不信仰のなす業なのかとも 思いもしました。

 

でも 一説には 

 

マリアが昇天する時駆けつけたのは

 

インドからかけつけたトマスだけで 

 

その時トマスが 受け取った腰帯を

 

他の弟子達が信じなかったといいます。

 

トマスがイエスの弟だとすれば インドから 駆けつけたトマスこそ

 

処刑の時 弟と入れ替わった 本物のイエスということになります。

 

さて、それはさておき、

 

当時の僕は 急いで 最後の晩餐の絵を 捜してみました。

 

イエスに 双子の 弟が いたならば

 

きっと そっくりに書いて あるのでは・・・

 

「いた! イエスの左にいる人物。

 

きっと これがトマスに違いない」

 

やや女性っぽく描かれているイエスに

 

似ているので そう思ったのです。 

 

ところが その人は ヨハネでした。

 

う~ん 違うのか?

 

さらに 調べると 最後の晩餐の場面の

 

聖書では イエスが愛する人(弟子)を 横に座らせると

 

書いてありました。

 

つまり ヨハネは イエスが最も愛する人間。

 

てことは 女? いやいや イエスの近くにいる

 

女性って マグダラのマリアだから・・・・

 

ん? ヨハネって 実はマリアで女?

 

それとも こんなこと言ったら 大変なことだけど

 

イエスは 同性愛者? なんて とんでもないこと 考えていました。

 

では 絵の中で トマスは どこにいたのか?

 

イエスの右で指を立てているのが トマスでした。

 

あまり似ていると 感じませんでした。

 

でも、あえて 完全なる横顔にして 指しか書かなかったのは

 

そっくりだというのを隠すため?

 

いや それにしても 似ていないな。

 

やっぱり ヨハネの方が似ているな。

 

その後 聖トマスの絵を 他に見つけて

 

あまりの禿おやじぶりに がっくり!

 

そう考えると 双子説は うそっぽいかな・・・・・。

 

イエスが トマスと 一卵性双生児であり

 

ユダの裏切りの時 すでに 入れ替わっていたならば

 

3日後、身体を持って 蘇ったことは

 

納得がいかなくはありません。

 

ただ 蘇りは トリックであり、 これが キリスト教の中の

 

トップシークレットだとしても イエスに そっくりな弟子が

 

一人いたとか どこかに ちょっと 書いてありそうなものですが

 

・・・・とひとまず決着。

 

でも 新約聖書がつくられる時

 

都合の悪い福音書は 皆 もやされたらしいですから

 

そろそろ どこかで そんな文献が出て来ても

 

おかしくはないですね。

 

ただ出て来ても 正統でないとか ああだこうだと 言われそうです。

 

でも 僕は 双子なので どうしても

 

もし そうだったらと 考えてしまいました。

 

双子だったとすると 兄を守るため ユダと手を組んで

 

イエスを捕まえに来た 警察にトマスを イエスだと 教えて 

 

わざと 捕まったことになります。

 

僕は 一卵性双生児で 弟 コウちゃんは 特別な 存在です。

 

弟が 自分の為に 死んでいくなんて

 

絶対に やって欲しくありません。

 

僕が イエスで コウちゃんが トマスだとしたら

 

耐えきれない話です。

 

処刑後の トマス(実はイエス)は 弟を 自分のせいで失った呵責を

 

抱えて 生きていったことになります。

 

嫌だな~ こんなの。 

 

やっぱり 素直に  はりつけにされたのは

 

イエス自身だったと 思うことにします。

 

ヨハネによる福音書では イエスは 叫び終わった後

 

母マリアと弟子達の前で 死んでいます。

 

死ぬ直前、母マリアには「弟子達は皆あなたの子供です」 

 

弟子達には 「我が母マリアは、おまえ達の母である 」

 

と 言い残します。

 

だから 弟子たちは その後 マリアの面倒をみます。 

 

そして 「私はかわく」といい、海綿に染み込ませた

 

ブドウ酒で口を湿らすと

 

「すべて 終った」と 言い 死んでいくのです。

 

・・・これは 自分の 予定していたことは 全部

 

やったという事を 意味しているのだと

 

僕は あえて 考えたい。

 

イエスそのままであれば

 

「 神様 私は なすべきことを 全うしました 」

 

入れ替わった 弟だとしたならば

 

「 神様 やっぱり 助かりたくて 神様に訴えてしまいました。

 

でも 兄さんを守れて 本望です。これで 兄さんは 蘇り 

 

民衆に 教えを 広めていくことが できるはずです。 僕の

 

役目は 終りました」

 

結局 キリストの最後からは 僕の考え

 

「命あるものは 死ぬ直前に

 

感謝して 死ぬことができれば

 

幸せなんじゃないだろうか?

 

どんなに 辛い人生であっても 

 

本人が 僕は よく頑張ったと

 

自分を ほめることができれば 幸せなのではないか」

 

に 納得のいく 答えは 見出せませんでした。

 

ただ、 今 のキリスト教どうしの 争いなどを見ると

 

20億人とも言える キリスト教信者の中に

 

どれだけ キリストの考えを 本当に意識しながら

 

生きている人がいるのだろうかと  首を傾げざるを得ません。

 

言葉は 正確ではありませんが イエスは こう言っていました。

 

イエス様、イエス様と言っていれば、

 

天国に入れるのではない。

 

神の心を持って行動している人が入れる。

 

幼子のように 自分を低くするものでなくては 

 

天国には 入れない。

 

世の中 権力を振りかざして、自分を高く見せたがっている人が

 

いかに多いでしょうか。

 

そして 口では いいことをいいながら

 

平気で 人を傷つけている人が いかに多いことか。 

 

さらに イエスは こうも言いました。

 

自分を愛するように 隣人を愛せよ

 

良く知られている この言葉こそ 神の御心です。

 

キリスト教信徒ではない僕ですが 

 

この教えは 人類が仲良くする 基本ルールだと 思います。

 

イエスは 自分の内なる声を しっかり聴き

 

当時の社会基準に とらわれることなく

 

己のやりたいことを 貫き通した人物だと思います。

 

だから やはり 満足して 幸福を得て 死んだのだと 

 

思います。 

 

幸せは 外にあるのではなく 内なる自分と向き合うことで

 

発見できると 教えてくれているのだと 感じます。

 

またまた まとまりのない 文章になってしまいました。

 

時間が来たので 終わりにします。

 

皆さま 良い お年を。 一年間 ありがとうございました。

  

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2番目の応援ソング

 

僕には ここ2年ほど

 

毎朝 聴いている曲があります。

 

2年程前、少年A君(小学校低学年)と知り合い 

 

知ることになった歌です。

 

ウルトラマンが 大好きな少年でした。

 

僕の世代が見てきたウルトラマンどころか

 

それ以前に放映されていた

 

ウルトラQに登場した宇宙人までも知っていて、

 

驚きました。

 

歳の差など 関係なく 

 

とても楽しい ウルトラマン談義をしました。

 

一緒に主題歌を 歌ってみようと

 

ウルトラマンの歌、帰ってきたウルトラマン、ウルトラセブンと 

 

次々と歌ったのです。

 

()  「ねぇ、今一番新しいウルトラマンは 何ていうウルトラマ

     ンなの?」

 

(A君) 「ウルトラマン ギンガ エス 」

 

()  「ふ~ん ギンガ エスってんだ」

 

(A君) 「うん、でも エスつけないで皆、ギンガって呼んでる」

 

()  「カッコイイ名前だね。歌もカッコいいの?」

 

(A君) 「かっこいいよ」

 

()  「うわっ 聴きたいな。 聴かせてくれる?」

 

(A君) 「うん、でも 歌えない」

 

()  「どうして?」

 

(A君) 「歌いたいんだけど 速くて よく分かんない 」

 

()  「そんなに 速いの?」

 

(A君) 「僕には 速い。だから 歌いやすい昔のウルトラマンの

     歌の方が好き」

 

()  「そうなんだ。子供達の歌なんだから 歌いやすい方が

     いいのにね。歌詞は、らららでいいから どんなに速いか

     歌ってみてくれる?」

 

(A君) 「いいよ、こんな感じ、ららら~ららら」

 

A君は ハミングで 歌い始めました。

 

()  「あれ? そんなに 速くないんじゃない」

 

(A君) 「うん、速くないとこもある 」

 

()  「じゃ そこは どんな歌詞なの? 分かるとこでいいから

     教えてくれる」

 

(A君) 「うん、・・・見えない壁に囲まれて・・・息が詰まりそう

    ・・・流した涙・・」

 

()  「・・・何か歌詞が暗いね。それ、本当にウルトラマンの  

    歌?」

 

(A君) 「うん、ほんと」

 

()  「最後は?」

 

(A君) 「強くなれ・・・」

 

()  「ふ~ん、息がつまりそうだけど 強くなれって感じの

     歌なんだ」

 

(A君) 「そう。かっこいいけど 歌詞が速すぎて分かんないから 

     歌えない」

 

()  「へ~、ちょっと興味あるな。今度 見てみるね、どんな歌

     かな~。歌詞が分かったら 教えてあげるよ。そしたら 

     一緒に歌おう」

 

(A君)  「うん」

 

 

僕は その日 インターネットで

 

ウルトラマンギンガエス を検索してみました。

 

すると 当時最新のウルトラマンの題名は

 

「ウルトラマン銀河S」で

 

主題歌は THE ALFEEが歌っている

 

「英雄の詩」だと分かりました。

 

さっそく ユーチューブで

 

動画と一緒に流れるこの曲を聞いてみました。

 

衝撃が走りました。

 

「・・・・」

 

こんなことは 初めてでした。

 

怪獣と戦うウルトラマンを見ながら

 

僕は 泣いていたのです。

 

僕を 涙させたのは 

 

目に飛び込んでくる画像では ありませんでした。

 

軽快なリズムとともに流れて来る歌詞でした。

 

今まで 「これは いい歌詞の歌だな~」と感じ 

 

目頭が熱くなる歌は いくつかありました。

 

しかし、 勝手に両目から 涙があふれ出たのは

 

初めてでした。

 

いや 2度目でした。

 

1度目は あまりにも前で 忘れてしまっていました。

 

この曲を 聴いた時 50年前 自分を奮い立たせてくれた

 

あの曲の感動が 蘇ってきたのです。

 

拙著「楽になりたいなら生きていけ (上巻)」の

 

歌の項目で紹介した オオカミ少年ケンの主題歌です。

 

「いつも おいらは おおしく 強いおいらは くじけない。

 

がっちりつかんだ 太陽 嵐は また来る。

 

走れよケ~ン ジャンプだケ~ン 太陽に届くまで・・・」

 

僕は 当時 自分を励ますために

 

毎日 この歌を歌っていました。

 

そして何かあって 沈み込んだ時

 

知らぬ間に この歌を口ずさんでいました。

 

この歌は 自分への応援ソングでした。

 

「ああ、この曲 第2の オオカミ少年ケンになる曲だな」

 

と感じました。

 

なぜなら まさしく この歌詞は 

 

僕のいじめの2年間を 歌っていたのです。

 

見えない壁に囲まれて 息が詰まりそうな毎日でした。

(母 コウちゃん 家族)の優しい微笑みだけが

 

僕を 未来へ導く光でした。
僕は、毎日 授業中 ヒーローになった自分を妄想していました。

 

そして 隠れ家で目を閉じることで

 

いつしか 何もできないのではなく 

 

掴もうとしていない自分を知りました。

 

そして だんだんと 目を閉じると

 

何でもできる 自分の可能性を

 

感じるように なりました。

 

何もかもが嫌になった時

 

「僕は 大嶋 健 心も体も強い健。名前の通りになれ。

 

それが僕らしさ。お父ちゃん、お母ちゃんに

 

プレゼントされた名前の通りになれ。僕らしさを失うな」

 

と、自分に毎日言い聞かせていました。

 

押さえつけられ 

 

つばを吐きかけられた時

 

小便をかけられた時

 

虫を食べさせられた時

 

ウンコを塗ったくられた時

 

僕の心は 生きる光を 見失いました。

 

また、恨み、憎しみという闇に 迷いました。 

 

どんなに 友達と遊んでいても

 

心の中に 独りぼっちを 感じていました。

 

でも 孤独に耐え 孤独と友達になると

 

いろいろな メッセージを 受け取ることで

 

しだいに 自分が 強くなっていきました。

 

そして ボロボロだった僕の心は

 

「悔しい、悲しい。苦しい。

 

でも、僕は 僕らしさを諦めず生きるんだ、

 

強くなれ、僕はやれる。

 

だって 僕は 心も体も強い 大嶋健なんだから」

 

と 自分を信じ励まし、希望の光から 目を離さなくなりました。

 

希望は傷ついた翼を しだいに修復していき

 

ついに 羽ばたける強さを 取り戻しました。

 

灰色の空を突き抜け 真っ青な 青空に

 

舞い上がりました。

 

頼らなくては 助け合わなくては 生きていけない。

 

だけど 最後は自分。

 

生命は すべてが孤独。

 

1つ1つが 別々で  それだから 尊い大切な命。

 

僕は 他の命と同じ。生きたいから生まれてきた。

 

だから とにかく 一生懸命 力いっぱい生きよう。

 

そのためには 心は明るくなくてはダメだ。

 

心が暗かったら 力いっぱい生きられない。

 

そのためには 

君はコウちゃんやお母ちゃんでは いけない。

 

コウちゃんやお母ちゃんの微笑みも 

未来への導き 支えだけど

何よりも 自分自身の微笑みが大切。

 

 

(大嶋健)を見つめて

 

(大嶋健)だけを 拠り所として

 

(大嶋健)という命を 愛し続けよう。

 

それでは ウルトラマン銀河Sの主題歌

 

英雄の詩の歌詞をどうぞ。

 

そして 是非とも 当時57歳の おっさんを 泣かせた

 

ウルトラマンの歌を 一度 ユーチューブで聴いてみて下さい。

 

ちなみに 感動した僕は コウちゃんに教えました。

 

コウちゃんは「いい曲だね。大人も 励まされる曲だ」といい、

 

CDを買いました。

 

 

英雄の詩

 

見えない壁に囲まれて 息が詰まりそうな毎日
君の優しい微笑みだけが 
未来へ導く光になる
星空に手を伸ばせば 
カシオペアさえも掴めた
瞳を閉じれば 空だって飛べた
少年達は英雄だった
夢に破れた瞬間 
あの悔しさの中で
流した涙覚えてるかい?
思い通りにならなくても 
自分らしくあれ
迷わずに生きるため
強くあれ! 強くなれ! 英雄(ヒーロー)になれ!

負けた時こそがチャンスさ 
孤独な夜に耐えながら
掴め!Victory 闇に迷っても
静かに朝日が導くだろう
灰色の雲を突き抜け 
青空高く飛び立て
希望という翼広げて

 

その勇気を奮い立たせ  愛を守り抜け

 

あきらめず生きるため
強くあれ! 強くなれ!

 

英雄(ヒーロー)になれ!

英雄の詩 口ずさむ

 

運命の前奏曲(プレリュード)
偶然という奇跡の中で

 

君だけを見つめて  君だけを信じて

 

いつまでも君を 愛し続けよう
思い通りにならなくても 
自分らしくあれ
明日を生きるため 
星空に手を伸ばせば 
カシオペアさえも掴めた
瞳を閉じれば 空だって飛べた
あの頃少年は英雄だった
強くあれ! 強くなれ!

 

英雄(ヒーロー)になれ!

 

 A君 THE ALFEE ありがとう!

君(自分)を信じることで

世界は まったく変わります。

信じないと、怒り、憎しみが生まれやすくなります。

怒りの心で見れば、怒りの世界

憎しみの心で見れば 憎しみの世界

悲しみの心で見れば 悲しみの世界

幸せになるには 

何よりも自分を信じ

命あることに感謝する心で

生きていきたいものです。 

 

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孤独からのメッセージ1

 

Kさんお久しぶりです。

 

コメントありがとうございます。

 

お元気そうでなによりです。

 

そうなんだよ、60歳になるんだよ。

 

あと数か月あるけどね。()

 

還暦を迎えることは分かっていたけれど、

 

「もう60年かぁ~」って、

 

1人しみじみ思うことすらなかった。

 

人は、そういうふうに、

 

1人になって

 

静かに考える時間を

 

いつの間にか、忙しさにかまけて

 

失っているんですね。

 

命ある限り 歩き続けることは 大切。

 

だけど より良く歩き続けるために、

 

ちょっと立ち止まってみることは

 

必要な事だと思います。

 

今の自分が惨めだと

 

こんな自分大嫌いって思い

 

情けない自分を否定してしまいます。

 

この自分を何とかしようと もがくけれども

 

現実はなかなか変わらない。

 

そんな繰り返しだと

 

ますます自分が嫌いになり

 

自分を無力に感じ 不安や怒りが生じてきます。

 

さらに こうなったのは 自分の周りにいる

 

誰々のせいだと 考えていきがちです。

 

だけど たった1つのことに 気がつくと

 

人生が変わってくるのです。

 

それは 結局 すべての生き物は

 

結局は 孤独で 

 

それが自然なのだということです。

 

「えっ どうして?」 と 

 

思う人がいるかもしれません。

 

今すぐ 言葉で説明しようにも 

 

僕の文才では 上手く説明出来ません。

 

気づきとは そういう 「はっ!」なのです。

 

7歳、8歳の子供ですら

 

気がつく 単純明快な 「はっ!」なのです。

 

僕を救ってくれた 孤独からのメッセージ。

 

孤独が自然 自分しかいない。

 

これは この世のつながりなんて

 

無意味と言っているのではなく、その反対なんです。

 

だからこそ 

 

互いに助け合うために 絆が生まれ

 

全ては つながっている。

 

自分を支えてくれている人との絆は

 

大切にしなくてはいけないものと

 

気がつくのです。

 

自分しかいないは

 

決めているのは 自分ということです。

 

自分を信じ 自分を拠り所にしていないと

 

外からの刺激で 簡単に心を乱され

 

不安 怒り 憎しみ に振り回される

 

ということです。

 

まさしく 当時の 僕そのものでした。

 

そんな自分が 嫌で嫌で 

 

こんな気持ちで 生きていたくない。

 

と 真剣に 悩んでいました。

 

そんな 僕に 自然は この真理を

 

教えてくれたのです。

隠れ家で 何度も見ている 

足元で 無造作に動き回る昆虫達

でも ある日 静まり返る

自然の中で 一生懸命動き回る

彼らは 僕に 孤独の意味を

伝えてきたのです。

僕は このメッセージに 救われました。

 

あれから 50年以上。

 

僕は 毎日 なるべく5~10分取って 

 

自分の意識を 宇宙につなげて

 

自分を 励ますようにしています。

 

なんか こう書くと

怪しく 難しいことをしているようですね。

 

後で どんな感じか書いてみますので

 

きっと 怪しくも 難しいことでもはないと

 

分かってもらえると思います。

 

まあ、 2冊目の本に書いたことを

 

短くして 行っているだけですから。

 

大人になって くると

 

仕事の他にもいろいろやることがあって

 

自分の時間を なかなか持てないのが 現実です。

 

1日何時間も 自分と向き合うことは 難しいことです。

 

でも、1日5~10分なら時間取れます。

 

まず 目を閉じて ゆっくり呼吸することを

 

3分続けるだけでも 1日が違ってくるのです。

 

人間は 小さなことでも 自分で決めたこと 

 

やりたいことを、行動し続けていくと

 

気持ちが良くなって だんだん1日が潤っていく。

 

人間とは こういった性質の生き物だと思います。

 

これを 教えてくれたのが

 

孤独であり、そこから学んだ

 

自信回復への方法こそ 本に記した

 

自分と小さな約束をし、

 

やり遂げた自分をほめる行為

 

そのものだったのだと思います。

 

僕がいじめを克服する考え方は

 

社会のほとんどの問題に通用すると

 

本に書いたのは 実体験からです。

 

僕は ひどいいじめの2年間が

 

ある意味 あの幼い2年間で 

良かった気がしています。

 

身のまわりには

 

孤独の意味を教えてくれる

 

自然が溢れていた時代でした。

 

純粋な心の時代に 

 

一人 自然の中で いろいろなことを

 

考えさせてもらったんだなと 感謝しています。

 

もし、あの2年間に 

 

苦しい思いをしていなかったなら

 

そのあと ひどいいじめとは いかないまでも

 

身に起こる諸問題 特に人間関係で

 

長い年月 うじうじと考えていただろうと 思います。

 

それは 中学からの自分の環境を振り返ると

 

あの2年間ほど きちんと 一人になって

 

毎日同じ時間 それも 本当の自然に包まれて

 

考え 感じることはできなかったからです。

 

今 以前 書いたブログに差し入れた風景を

 

思い出しました。僕の隠れ家の一つでした。

 

自宅真横にある めったに 人の来ない隠れ家でした。

 

時間が来たので 今日は ここまでにします。

 

孤独が教えてくれたメッセージについては

 

また 次回 続きを書こうと 思います。

 

いつになるか 分かりませんが

 

時間が出来た時 また あの頃を思い出しながら

 

思いつくまま 打ってみようと 思います。

 

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愛と憎しみと孤独

久しぶりにブログを更新します。

 

あっという間に11月、

1年ごと早く感じる時の流れに、

驚くばかりです。

 

80歳になった頃には、

「昨日正月が終わったと思ったら、

今日はクリスマス?」なんて、

感じているかもなと思っています。

認知症じゃないですよ。

 

脳って不思議です。

 

同じ1年なのに、時間の感じ方が違う。

 

そういえば、今日は

還暦を迎える同窓会があります。

 

小学校1年の頃は、

6歳だから自分の人生の1/6です。

だから、1年もそれなりに長かった。

でも60歳だと1/60ですから・・・・

 

あれ、こう書くと、

1年が短く感じるのも

無理がない気もしてきました。

 

小学校2年の10/10

東京オリンピックがあったのに、

4年後再び、東京オリンピック。

 

前の東京オリンピックから52年。

 

同窓会を前に、52年をちょっと

振り返ってみたいと思います。

 

環境は大きく変わりました。

 

科学は目覚ましく発展し、

いろいろ便利になりました。

一方で、環境破壊が進み、

取り返しのつかない

原子力事故も起きました。

 

そして、日本は戦争していませんが、

必ず世界のどこかで戦争は続いていたし、

いじめも世界中で続いています。

「誰もが悪いことと分かっていても、

やっぱり、これらはなくならないんだな~」

と、人間の心の弱さを思い知らされます。

 

やっぱりと書いたのは、

 

「いじめはよくないからやめましょう」

 

「戦争はよくないからやめましょう」

 

と、言われても、耳を貸さないのが

 

それを行っている人間の特性だからです。

 

楽になりたいなら生きていけに書き、

詳しいことは省きますが、僕は

「いじめを少なくすることはできるだろう。

でも、いじめがなくなることはけっしてない」

と考えています。

そして愛についても、

「巷に溢れている愛という感情では、

いじめはなくならないばかりか、

いじめが起こる根源でもある。

いじめる心の根っこは、

他の犯罪と共通したものである」

と考えています。

 

たとえば、僕らの頃にも、

あったのでしょうが、

 

今日ほど問題にならなかった、

ストーカーによる殺人事件。

 

人を好きになる気持ちは、

どんな人間にも生じる感情で、

相手への気持ちが強くなれば、

独り占めしたくなるのも、

止めることが難しい感情の流れです。

恋愛をすれば、誰もが、

小さなストーカーに変身しているはずです。

 

人間の世界から、

他人を好きになるという現象は

なくならないだろうし、

まったくなくなってしまえば、

これまた、争いが起こりやすくなります。

それに人が人を好きにならなければ、

種族は絶えてしまうでしょう。

ある意味、仲良くやっていくために、

種族を維持していくために

組み込まれた本能とも言えます。

人類が人間関係を円滑にし、

種族を維持するために、

なくてはならない好きという感情、

しかし、何にでもいい塩梅というものがあり、

それが多くなり過ぎると、

理性は感情の渦に巻き込まれて、

働きを失ってしまうのでしょう。

う~ん、だから難しい。

 

だから、このような精神状態に

なっている人に

「近寄るな」といったところで、

あまり効果がありません。

彼らは心の奥底で、

自分がしていることが、

悪いこととは知っていますが、

欲望を満たすために、

気がつかないふりをしているし、

それに慣れてしまい、

本当に分からなくなってしまっている

場合すらあるでしょう。

 

でも相手の気持ちを無視して、

必要以上に支配しようとするじたい、

いじめと同じ発想なのです。

そしてそれが楽しいのです。

こういう人が、正気を取り戻すためには、

とても難しい心の処理が必要になります。

 

この人達が相手を傷つけず、

問題行動をやめるとしたら、

今つきまとっている相手以上に、

気になる相手が現れた時なのだと思います。

新しい相手のことを考えると、

ぞっとするものを感じます。

 

僕はいじめられていた2年間、

神様、自分、相手を憎んでいる自分に、

とても悩みました。

そして幸いなことに、

なんとかこの世界から

抜け出すことができました。

 

しかし、毎日のように、

ニュースで流れるいじめや戦争を

見聞きするにつけ、

「これが自分や家族に起きたとしたならば、

僕はどうしているだろう」

とよく思うのです。

正直、憎しみの世界に

戻らないでいられる自信がないのです。

 

ニュースで、いじめや無慈悲な事件を

見聞きするにつけ、

「こいつら、ぶっ叩きまくってやりたい」

と怒りを覚えます。

でも、小さい頃、心に生じた、

「殺したい」という気持ちにはなりません。

もちろん、あの苦しみには、

2度と戻りたくないという気持ちが、

無意識に働いているのだとも思います。

 

でも、ここまでですんでいるのは、

冷たいようですが、

「被害者が他人だからなんだ」

とも感じ、不安を覚えています。

 

もし家族や大切な人を傷つけられれば、

再び、「本当にぶっ殺してやる」

になる気がするのです。

その人を心底憎むと思います。

そしてきっと、また悩むでしょう。

 

僕は、憎しみが、

自分をどんどん苦しくすることを、

経験上、普通の人より、

少しは分かっているつもりです。

それでも自信がないのです。

頭でいくら分かっていても、

これがなかなか止められません。

好きも憎しみも、

コントロールすることが難しいものです。

 

そんな時は、おそらく僕は、

あの時のように一人になって、

自分と向かい合うことになると思います。

 

今日は同窓会。

中学からの絆を育むことができる

楽しい時間です。

大切にしたいつながりの時間です。

 

ただ、どちらかというと、

1人が好きな僕は、

ハロウィンで集まる若者を見ると、

世の中でいう

孤独やつながりって

何なのだろう思います。

ちょっと僕の感じているものと

違うのかもと・・・・

 

とにかくハロウィンを盛り上げたい。

参加することに意義がある、

はめをはずしたくて、

目立ちたくて、

なんとなく面白そうだから、

仲間と参加することで絆を深めたい、

新しい出会いを求めて・・・・など、

いろいろあると思います。

 

でも僕は誘われても

行かないと思います。

僕は集まることと、一人でいること、

どちらが好きかと言えば、

1人なのです。

 

暗いと言われても、

付き合いが悪いと言われても

まったく平気です。

 

それに決して僕は暗くないですから。

孤独・・・

孤独な奴、孤独死、、、

なんか、一般的には良いイメージがない

言葉ですね。

でも、僕を救ってくれたのは、孤独でした。

 

そして、本当に大切なつながりは何かを

教えてくれたのも、孤独でした。

 

孤独は人生の先生であり友達であり、

自分とは何かを

思い出させてくれる世界です。

 

きっと、孤独が好きな人の中には、

僕と同じように感じている人が

いるのではないかなと思います。

 

今、こうして一見、暗いことを

書いている僕は、

「孤独って大切なんだよ」って、

伝えたいのかもしれません。

今、そう感じました。

 

54年前、本当に心が真暗だった時、

一緒にいてくれた僕の親友たち。

それは孤独の世界を

包んでくれていた自然です。

今も静かにたたずんでいるもの、

中にはなくなってしまったものもあります。

絶叫し、何度も涙を流し、

暴れまくった病院の裏山は、

跡形もなくなっています。

さみしく感じます。裏山には感謝のみです。

 

辛い時、孤独は、

いろいろなことを僕に感じさせてくれました。

その教えは心に染み込んできました。

そして、僕の心は確実に癒されていきました。

 

ひどく疎外感を感じていた時には、

「一緒だよ。一人じゃないよ。君は僕らと一緒、地球の生き物だよ。つながっている」

と、声と気配を大きくしてくれました。

 

さらに、荘厳なまでの静寂の中、

一人で動き回っている昆虫は、

「結局は1人なんだよ。お父ちゃん、

お母ちゃん、コウちゃんすら、

最後は別れるんだ。それが自然。

頼り過ぎちゃだめ」

って教えてくれました。

 

森林の中や浜辺で目をつむった僕は、

すべてを捨て去ることで、

孤独が自然であり、

辛いことではないことを知りました。

 

今、心を悩ませていることは、

「心の不安が映し出しているまやかし」、

実は現実だと思っている世界こそ、

夢の世界なのかもしれないと感じました。

 

本物の世界が、こっちにあるのなら、

こっちを幸せにすればいい。

(現実だと思っている世界)

楽しくても悲しくても、夢は夢。

 

「僕の幸せは、外ではなく、

内側にある。僕が欲しいものは心の安らぎ」

 

欲しいものがはっきりし、

どうすればいいのかを、

自分で前向きに考えることが、

できるようになっていきました。

 

当時の僕は、

いつも心の中で独り言をいい、

苦しんでいる自分を逃がす場所として、

空想の世界を作り出していると、

自覚していました。

 

外の世界が現実の世界で、

内側で思っている世界はまやかしで、

実際にはない世界だと思っていました。

何の役にも立たない、

負け犬が逃げ込む世界、

でも逃げ込まずにいられないと、

感じていたのです。

 

ところが、孤独は、

現実と同時進行で

一緒に存在している内なる世界は、

本当にあることを教えてくれたのです。

 

そして、内なる世界は、

誰にも邪魔することのできない世界であり、

決定権は自分にあること。

そうできないと思っているのは、

そう思い込んでいるだけ。

この世界を他人に渡すことは、

本当の意味で、死ぬことを意味すると、

感じました。

 

いつも気にしている外の世界と、

別世界があることを強く感じ、

その世界を満足させることこそ、

外の世界に惑わされず、

安らぎと一緒に生きていける方法だと

思ったのです。

 

世の中を見ていると、

外の世界に対してばかり過敏な気がします。

「どうでもいいこと」に対して、

すぐ批判的反応をし、

同調するリアクションを拡散させたり、

期待通りの反応がないと、

その相手に怒りを伝えて、

見苦しい言い合いをネット上で

繰り返したりしています。

 

孤独は良き友達です。仲良くしましょう。

孤独を怖れ、つながりを求めることで、

必要のないつながりを、

不用意に作ってしまうことは

危険だと思います。

悪いつながりを呼び込み、

それを断ち切るために、

心を痛めることになったり、

実際に事件の被害者に

なってしまったりしているように感じます。

 

 

 

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もともとなかったんだ! 2/2

 

人生、すべての問題を解決しながら生きていくことは

 

無理なことです。

 

自分ではどうしようもないことには、必ず出くわします。

 

それなのに、問題解決に固執しすぎると、

 

背負わなくてもいい

 

重荷を背負って生きることになります。

 

とても生きていくことが苦しくなります。

 

解消しきれない問題を意識し過ぎると、

 

何かのきっかけで、

 

いつもより強く不安、怖れにとらわれることがあります。

 

もし一人きりになった場合、

 

生きていけるかと怖くなり、

 

ますます明るい将来が見えなくなるのです。

 

そんな時には、次のことを意識すると

 

良いと思います。

 

不安、怖れ、憎しみは、

 

最初からあって

 

何かの原因でそれに出会って

 

取り込まれるから

 

怖れたり、憎んだりするのではない。

 

もともとはないもので、

 

考えるからそこに生まれる。

 

これだけでも、心が軽くなっていきます。

 

中巻②に書いたように

 

当時の僕は、

 

コロコロ入れ替わってしまう自分の心を痛感し、

 

何て僕は弱いんだと嘆いていました。

 

朝頑張ると誓っても、すぐ落ち込み、

 

学校で誓い直しても、再びいじめにあえば

 

またひどく落ち込む。

 

同じものを見ているのに

 

生じる思いに、天と地との差がありました。

 

結局、気持ちが落ち込んだ時は、人間、ろくなことを

 

考えないのです。

 

もし、あなたがひどく落ち込んでいるとしたならば

 

「今僕()はとても落ち込んでいる。

 

こんな時はろくなことを考えない」

 

と、意識しましょう。

 

そして、こう思いましょう。

 

「考えなければ、嫌な気持ちは消えていくんだ。

 

だって他にも嫌な事、いろいろあったはず。

 

なのに残っていない。つまり、嫌な思いは意識

 

しなければ、心から消えていくものなんだ。

 

ずっとあると感じるのは、ずっと考えているからだ。

 

だから3分考えなければ、きっと消えてしまう」

 

なぜ3分なのかは、理論的根拠などありません。

 

笑われてしまうでしょうが、ウルトラマンが地球上で

 

戦える時間の3分です。

 

当時の僕にとって、たかが3分、されど3分の項目

 

で書いたように、

 

3分はウルトラマンが地球を救う時間でした。

 

特別な時間だったのです。

 

ピンチを逆転するの時間だったのです。

 

でも不思議なことに、3分考えないと、

 

不安は本当になくなってしまっていました。

 

人間は落ち込んでしまうと、

 

なぜ、どうしてと、叫びます。

 

自分がそうなってしまった理由を捜します。

 

理由を見つけて、文句を言いたいのです。

 

すぐ理由がみつかることもありますが

 

見つからない場合もあります。

 

理由が見つからないと

 

より不安になるのです。

 

どうしてこうなってしまったのだろう?

 

何が悪かったのだろう?

 

理由が分からないのに、

 

このままで、大丈夫なのだろうか?

 

それを突き止めて何とかしないと、

 

もっと悪くならないだろうか?

 

前向きに考えることより

 

理由を捜すことに気持ちが

 

向いてしまいます。

 

一生懸命生きてきたのに、

 

別段、悪いことをしてきたとは思えないのに

 

こうなってしまった原因はどこにあるのか

 

受け入れたくない現実、

 

理由が見つからず理解不能の現状に、

 

心がかき乱されるのです。

 

こんな時思い浮かぶことは、否定的なことばかりです。

 

そして、落ち込んでいる理由を

 

何かのせいにして、

 

決着をつけようとしている

 

自分に気がつかないのです。

 

かく言う当時の僕は1年半ずっと、

 

心に生まれる不安、怖れ、憎しみを

 

ヤケドといじめっ子のせいにしようと

 

躍起になっていたのですから、

 

その代表とも言えます。

 

ろくでもないことを考えているのに

 

それが正しい判断だと、正当化していたのです。

 

いじめ(病気、不都合)があっても、

 

その原因に執着しないことです。

 

それがあるから、確かに辛いのですが、

 

それがあっても、不幸だと考えないで

 

元気に生活している人もいることを

 

忘れてはならないと思います。

 

そのせいばかりにすると、

 

今が台無しになります。

 

小学校3年生の僕が、これらの気づきから

 

行ってきた心配を消していく方法を紹介します。

 

心から不安が消えなくなったら

 

「心配していることは今、起こっているの?

 

と、問いかけましょう。

 

今何も起こっていないことが分かったならば

 

「だったら、今が大切だろ。今を台無しにするな」

 

と、自分に言いましょう。

 

言い方を変えてみます。

 

今食べれば最高に美味しい大好きな料理が

 

目の前にあって、食べて良いのです。

 

それなのに、それを食べて楽しもうとせず、

 

あれこれ考えていたならばどうなるでしょう。

 

冷めるどころか、長引けば腐ってしまいます。

 

そうなった時、腐ってしまうまで気がつかなかったのは

 

あの原因がいけないのだと嘆くとしたら、

 

バカみたいな話です。

 

それにすら気がつかないのが

 

落ち込んだ時の判断力なのです。

 

だから、不安になったら、

 

「今だよ、生きるって今の連続だよ。

 

だから今を楽しもうよ。もったいないよ」

 

と、自分に話しかけることを、やってみましょう。

 

これで「そうだね」と思えれば、OKです。

 

僕は何度も、これで気持ちを明るい方向に

 

すぐ修正できました。

 

が・・・・

 

落ち込みがひどい時、そう思えないことも、

 

よくありました。

 

「そんなこと言っても、

 

別に楽しいことをしているわけでもないのに、

 

楽しめないよ」

 

こう文句をいう自分が現れるのです。

 

それでまたどう考えればいいのか、悩みました。

 

これは難問で、隠れ家で一生懸命考えても、

 

答えは得られませんでした。

 

ところが、この難問は、ある日、母が発した一言で、

 

いとも簡単に解決してしまったのです。

 

家で母と子供達全員が遊んでいた時でした。

 

「あ~楽しかった、楽し過ぎて、お母ちゃん苦しいよ」

 

と、母がはちきれんばかりの笑顔で言ったのです。

 

「どうして楽しいのに苦しいの?

 

妙に感じたケンは聞いてみました。

 

「笑い過ぎて、お腹の筋肉つっちゃったんだ。

 

久しぶりだよ、こんなに笑ったのは、あ~楽しかった」

 

ケンは、思い切って聞いてみました。

 

「お母ちゃん、いつも楽しいんじゃないの?

 

 こう聞いたのには理由がありました。ケンにとって、

 

母はいつもニコニコしている太陽だったからです。

 

とにかく子育てが楽しいという喜びに満ちていたのです。

 

その母が楽しかったと言ったからでした。

 

「ふふ、そうだね。おまえ達がいればいつも楽しいよ。

 

でも楽しいって言ったって、

 

今みたいにバカ楽しいってことじゃない。

 

普通だよ、それで十分だ」

 

母の言葉が、ケンの心に突き刺さりました。

 

「そうか、そうだよな。楽しいと感じることなんて一瞬。

 

誰だって、ほとんどは、そんなこと意識しないで生きている。

 

だから普通にしていられることに文句を言っていたら、

 

絶対、い~まもいいからにすらならないよな」

 

「い~まもいいから」って、

 

今に満足しないで、

 

もっともっと楽しいことはないかって

 

欲を出すと、壊れてしまうものなんだ。

 

考えるから不安になると同じなんだ、

 

不安になるって、今に満足しないってことなんだ。

 

それからというもの、

 

心から不安が消えなくなると

 

「ケン、おまえ欲張り過ぎていないかい?

 

たとえ、今楽しいことをしていないとしても、

 

これで十分幸せなんだよ。

 

今に文句言ったらバチが当たるよ、

 

そんなことしているから不安になるんだよ」

 

と、言い聞かせるようになってきました。

 

さて今に満足するためにいい方法があります。

 

これは中巻②、心が明るくなる祈りの章に書いた、

 

微笑みという方法です。

 

この方法を行っていれば、今に満足できるのです。

 

微笑み顔を作り、大切な人を思い浮かべるのです。

 

そして全身を、微笑んでいる大きな顔だとイメージします。

 

すると、その人に感謝の気持ちが湧いてきます。

 

自然とやさしく、穏やかな気持ちに浸ることができます。

 

自分を支えてくれている人がいて、

 

今の当たり前があることに気がつけるのです。

 

そうすると、今で十分であることが理解できてきます。

 

さらにその人が幸せであって欲しいとも思えくるのです。

 

それだけではありません。

 

自分の中にやさしい気持ちがあることを知ることができます。

 

自分を信じる気持ちが生まれてきます。

 

「そうだ、とにかくできることを、一つずつやっていこう。

 

そしてそれに満足していこう」

 

と、前向きな気持ちになっていけます。

 

是非、やってみて下さい。

 

長くなったので、不安になった時の

 

対処方法をまとめておきます。

 

1 不安、怖れ、憎しみは、 

最初からあって 

何かの原因でそれに出会って 

取り込まれるから 

怖れたり、憎んだりするのではない。 

もともとはないもので、 

考えるからそこに生まれる。 

これをまず意識する。

 

2 不安がっている自分をダメな奴と責めないこと。 

不安は大きな失敗を防ぐための 

シグナルなのだから、

それをもとにできることをすればいいだけ。

あれこれと考えれば、完全な準備など

永遠にできない。

 

3 落ち込んだら、人間は落ち込んだ時、

  ろくなことを考えないから

  人生など、重要なことを考えないこと。

  否定的な事しか考えないから、

  ますます落ち込んでしまう。

不安は他にもあったはず。

それなのに残っていない。

    つまり、不安は意識しなければ、

心から消えていくもの。

ずっとあると感じるのは、

ずっと考えているからだ。 

考え過ぎるから心配が生まれ、先が怖くなる。

 

4 生きることは今の連続。だから今がどうであれ、

  今を不満に思えば、ますます不安になる。

 

5 今に満足できない時は、微笑みながら、

  大切な人の幸せを祈ること。

  こうすると、今が大切な人に支えられて

  成り立っていることを理解でき、

  感謝の気持ちが生まれる。

  感謝は満足につながる。

 

-終わり-

 

 

 

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もともとなかったんだ! 1/2

 

今回は下巻②で、カットされた原稿です。

 

いつになるか分かりませんが下巻②を再編して、

 

出版する時は載せるかもしれませんが、

 

ある理由から、ここに載せます。

 

落ち込んでいる人は読んでみて下さい。

 

もともとはなかったんだ!

 

いじめにあっている7歳、8歳のケンは

 

現在とは別人のように、

 

心に不安を持った人間でした。

 

それでも、夏休みや冬休みは

 

家族と一緒にいることが多いので

 

とても楽しい毎日を送っていました。

 

しかし、休みが終わりに近づくと

 

大きな不安に襲われていました。

 

上巻、魂は不滅、ふざけるな!

 

の項目で書いたように、

 

小学校2年生のケンは、

 

自分が一人になってしまった場合

 

とても 生きていけない。

 

このまま生きていくのが辛い

 

と強く感じていました。

 

そして、ひどいじめを受けた時は

 

衝動的にもう生きていたくないと思い、

 

何度も高木に登っていました。

 

小学校2年生の冬、ある事件で

 

ケンは自殺を絶対しないと誓ったものの

 

3年生の春休み明け、夏休み明けの心は

 

不安で打ち震えていました。

 

宿題が終わっていないことよりも

 

いじめの再開が気になって

 

しかたがなかったのです。

 

休み中の幸せが終わる。

 

また地獄の毎日が始まる。

 

僕は戦って行けるだろうか?

 

休み前のように、毎日、自分を励まし、

 

頑張っていけるだろうか?

 

そう思うと、とても不安になるのです。

 

そうするしかないと分かっていても

 

またできるか自信がなく、

 

そんな毎日が嫌なので、

 

学校には行きたくないのです。

 

そうなった時のケンの癖は、自然に話しかけることでした。

 

不安な時、ケンは空や植物や昆虫によく

 

悩みを相談してしました。

 

と言っても

 

一方的に、愚痴を聞いてもらったり、

 

話しかけたりしていただけなのですが・・・

 

そうすることで、心の不安を軽くしていたのです。

 

そんなケンも、下巻①に書いたように、

 

3年生の2学期、

 

ついに、いじめに対して、

 

本気で覚悟を決めることができました。

 

そして、自分を安定させる方法として

 

元気が出る悩み方を考え、まとめ始めていました。

 

これは何度も書きますが、悩み始めて

 

1年半、一人隠れ家で悩む自分自身に

 

変化を感じていたからでした。

 

とにかく感情的になり、わめき散らしていた

 

1年半前に比べて、なんだかんだ言いながらも

 

一人考えることで、心を落ち着かせるように

 

なってきている自分がいたからでした。

 

情けなさの中に、成長している自分を

 

時々見ていたのです。

 

ケンは悩んだのに元気が出た日があったことを

 

不思議に思い、僕はあの時何を考えたのだろうと

 

興味を持ち分析していたのです。

 

そんなある日でした。いつものように

 

隠れ家の地面を動き回る虫を見て話しかけていました。

 

「一緒に考えてくれよ。あの時僕は何を考えていた? 

 

答えを教えてくれよ。いつも近くで動き回っていたから

 

分かるだろう」

 

問いかけても、虫は我関せずと、あちこち歩き回っています。

 

「相変わらず返事なしか。君は忙しそうだね、今日も。

 

でもいいよな~。こうやって悩むことなく、

 

動き回っていれば、幸せなんだから。

 

虫になるのは嫌だけど、そうなりたいよ。

 

まあ、言っても分からないか。人間は辛いんだよ」

 

と、これまたいつも通り思っていました。

 

だが、この日、その後こう感じたのです。

 

「はっ、もしかして 僕はその時、

 

()のようになればいいと

 

考えていたってこと? それが返事! ずっと

 

返事をしていてくれた?

 

ケンは、餌のこと以外、

 

何も考えず動き回っている虫と、

 

夏休みで得た気づきから

 

不安に対する効果的な対処方法を

 

思いついたのです。

 

下巻①に書いたように、3年生の夏休み後半、

 

ケンは、列車の旅を行いました。

 

窓から外を眺めながら

 

人生と過去現在未来の関係について

 

考える経験をしていました。

 

瞬間的に移り行く風景と自分の心を

 

照らし合わせることをしていたのです。

 

それらが、列車での旅、海での気づき、

 

3秒間の安らぎの話です。

 

そして、新学期が始まってからも

 

海で自然に口をついた

 

あるフレーズの意味を考え続け

 

この日を迎えたのです。

 

虫の答えを悟った、ケンはこう思いました。

 

「なかったんだ! 僕を苦しませているこの不安、

 

怖れ、憎しみは、僕自身がヤケドを知らない時はなかった。

 

そして、ずっと知らないままでいたら、

 

今も未来も存在していないんだ! 」

 

つまり、もともとこれらは存在していなかったことに、

 

やっと気がついたのです。

 

人間の心というものは

 

つくづく不思議なものです。

 

自分で答えを口走りながら、気がつかないのですから。

 

いや、気がついているのに、認めたくないというのが

 

本音なのかもしれません。

 

当時の僕は、毎日、次のように思い、

 

隠れ家で、その思いに苦しんでいたのです。

 

こんな気持ち(怖れと憎しみ)、もともとなかったんだ。

 

だけど あんなことされたんだ。

 

憎んで当然だろう。

 

もっと憎め! 憎み殺してやれば気が晴れる。

 

・・・・・・嫌だ、そんなの嫌だ。

 

いくらなんでも、そんなことしたら、

 

元の僕には二度と戻れない。

 

どうして こんなこと考えるんだ。

 

あいつらが憎いからだ。

 

でも、苦しい。憎むと苦しい。

 

憎しみなんかいらない。

 

僕の心から消えてなくなれ!

 

おまえがいるから 苦しくてしかたがないんだ」

 

こう思っても、苦しくなるばかりでした。

 

怖れが成長して、憎しみを生み出し、

 

どんどん大きくなっていくことを止められませんでした。

 

心の中に生まれる憎しみは化け物になり

 

「もっと寄こせ、憎しみを食わせろ」と

 

暴れ回っているのです。

 

そして その原因は いじめてくる奴らにある。

 

あいつらがいなくならない限り、

 

あいつらを打倒しない限り

 

心に平安は訪れないと 考えていました。

 

不安、怖れ、憎しみは生まれて当然です。

 

ただ、それらを生み出す原因があったとしても

 

それらを考え続けなければ、消えていくのです。

 

そうすれば、憎しみは化け物のように

 

膨らんでは行かないのです。

 

ひどいことをされれば憎いと思う気持ちは、

 

必ず生まれると思います。

 

でも、その後、それを消していくか、

 

生かしていくかは、ケンしだいだったのです。

 

そして始末の悪いことに、太線と下線で示したように

 

本当は、もともとはないものであること、

 

さらに自分で作り出していることも知っていたのです。

 

心の中で化け物を作り出してしまったのは

 

ケンが考えるということを繰り返してきたからなのです。

 

ケンはこれに気がついた時、海で自然に歌い出した

 

あの歌のフレーズが、また口をついて出てきたのです。

 

「い~まもいいけど、い~まもいい~」

 

童謡「汽車」の出だしのメロディーにのって

 

海から家までずっと口ずさんだ歌が、どうして

 

ケンにとって心地良かったのか、

 

理解できた気がしました。

 

不安になることが嫌だったら、

 

悪いことを考え続けなければいい。

 

いまも、その次も、さらにその後も、

 

ずっとそれを考えなければいいんだ。

 

そうすれば、不安や怖れは出てこない。

 

いじめ以外にも、不安、怖れはありました。

 

でも、考え続けていないから、

 

自然と消えて行ってしまっているのです。

 

ケンは、これに気がついたのでした。

 

心配しないで生きることなど、誰にもできません。

 

そして心配は悪いことではありません。

 

初めての仕事、旅行など、準備すべきことを

 

まったく心配しないというのも、困りものです。

 

そんな人がいたら、同行する人は迷惑です。

 

心配は失敗を防ぐための、防衛シグナルなのですから

 

大切にすべきことでもあるのです。

 

実は心配をもとにきちんと準備して、

 

満足することは

 

元気が出る方法なのです。

 

心配し過ぎてしまうことが、いけないのです。

 

そんなものあるはずがないのに、

 

この準備だけでは足りないのではと、

 

起こり得るすべてに対処できるまで

 

用意しようとします。

 

だから心配ばかりしている人に限って、

 

心配するばかりで、

 

実際の準備が遅れがちになります。

 

さて、どうせ考えるなら、元気が出ること、

 

元気が出る方法 という気づきは、

 

その後、この下巻②に書いた

 

様々な項目に対する心の指針を立てていきます。

 

毎日が楽しくない時、

 

相手が怖くて仕方がない時、

 

嫌なことばかりで死にたい時、

 

解決策が浮かばない時

 

などの項目に記したこれらの指針は、

 

そのまま活かされて現在に至っています。

 

いじめが終わった後も、僕は成長していく過程で

 

時々、理由もなく、不安な気持ちになることがありました。

 

例えば 一人暮らしをしている学生時代、

 

今まで病気をしてもすぐ治ってしまうのに

 

高熱が続き、寝込んで動けなくなってしまった時、

 

不良たちとケンカをして、数週間

 

血尿が止まらなくなった時など

 

まさか、このまま死んでしまうのか・・・・、

 

どこかおかくなっていて、

 

後遺症が出たらどうしよう・・・・

 

などと弱気になることがありました。

 

こんな時、考えれば考えるほど

 

怖くなり、眠れなくなりました。

 

もともと寝つきが良い僕は、

 

こうなると、ますます不安になりました。

 

すると、どうしたことか、

 

「い~まもいいけど、い~まもいい~」

 

と、聞こえてくるのです。

 

「そうだ、考えないこと。

 

考えるから、不安になるんだと意識すること。

 

元気になるためには

 

今、心はくつろがせて、

 

体に余計な負担をかけてないことが大切だ」

 

この真理に気づくことで、心に余裕が生まれました。

 

この後、僕が思うことはいつも同じです。

 

「体は弱っていても、心は持ち方次第で元気を出せる。

 

そして心が元気になるから、

 

体を治す力も強くなる。

 

体と心が一緒になってこそ、僕全体。

 

今は、半分で頑張っている。

 

心が体に協力してあげなくちゃ、

 

治る力は全力を出せない。

 

気がつくの遅れてごめんね、僕の体。

 

一人で頑張ってくれていたんだね。

 

ありがとう。

 

大丈夫だよ。絶対に治るから。

 

僕達が一緒になれば無敵だよ。

 

全身の細胞に、元気の意識を送るよ。

 

元気の素を受け取ってね」

 

そう思い、吸い込む息に、

 

健康なエネルギーが

 

光っていると意識しました。

 

こうしてゆっくり呼吸していると

 

いつの間にか眠ってしまいます。

 

病気の時、弱った体は回復に

 

それなりの時間が必要かもしれません。

 

この間、悪いことばかり考えると、

 

身体に治そうという

 

強い意識が起きません。

 

治りたい、でも治らなかったらどうしようと

 

マイナス思考にとどまってしまいます。

 

治したい、でも治るだろうかとよし治そうでは

 

体の反応は大きく違うのです。

 

気持ちまで、弱ってしまうと、

 

健康体を取り戻せない錯覚に陥ります。

 

ですが、気持ちは、持ち方次第で

 

一瞬に変えることができるのです。

 

50代半ばになった今も、病気に限らず、

 

なぜか不安に襲われることがあります。

 

そんな時、今もこの歌は、僕の心に蘇ってきます。

 

心が不安状態になると、

 

心の中のデュークボックスに

 

スイッチが入って

 

この歌がかかってくれるようで、

 

とても助かっています。

 

心に元気を取り戻すきっかけを与えてくれる

 

ありがたい歌です。

 

-続く-

 

 

 

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灰色のすばらしさ

 

今回も、本に載せられなかった原稿です。

 

前回の季節はずれの花火と太陽の話の続きです。

 

灰色のすばらしさ

 

さらにケンを元気づけたのは、

「太陽には黒点と呼ばれる部分があって、

他の部分より温度が低く、

その数が増減する」という内容でした。

 

ケンは勝手に、

黒点とは太陽の弱い心、

悪いことを考えてしまう心と解釈したのです。

太陽にも弱い部分がある。

でも全体としてあんなに輝いて、

皆を照らしているんだ。

 

「間違いない。

善いも悪いも両方あっていいんだ

当時、ケンは心に生まれる

いじめっ子を憎む気持ちを憎み、

苦しんでいました。

いくらなくそうと思っても

なくならない憎しみに対して、

一人悶々としていたのです。

そんな時、

テレビ番組コンバットを一緒に見ていた父が、

こんなことを言ったのです。

父は忙しくて、

一緒にテレビを見ることなどまれなことでした。

その父が言った言葉なので、

今でも覚えています。

 

「これはアメリカの番組だから

ドイツ兵がたくさん殺されるのは当たり前だ。

でもこの話みたいに、

普通のドイツ人がアメリカ兵を憎むのも、

当然のことだ。

憎んでサンダース達に

抵抗するドイツ人が悪いんじゃないぞ。

戦争で家族を失った人は、

家族を殺した見知らぬ相手に対して、

国に対して憎しみを持つようになる。

それを持つなというのが無理な話だ。

だからどっちの国も、

戦争で家族を失くした人は、

悲しみと憎しみ、

残った家族を

守らなくてはいけないという使命感、

誰もがそれと闘いながら生きていたんだな。

戦争とは人間を

そういう不幸に陥れてしまう。

娯楽だからいいが、

こうやってどちらかが殺されれば、

どんな人間であっても、相手が憎くなる。

憎しみはいけないというが、

家族がこうやって殺されたら、

お父ちゃんだって、相手を憎むわな。

心ってそういうもんだ」

 

ケンは、父の言わんとする意味とともに、

憎しみは不幸のもとであるが、

自分が弱すぎるから、

異常だから持つものではないと、

教わった気がしました。

 

とても気が楽になったのを覚えています。

 

「そう、あんなこと

(いじめで、ケンに対して行われた、

数々の嫌がらせ)をされれば

憎しみが湧かないわけがない。

確かに憎しみは良くないけれども、

憎しみを持った僕が悪いのではない。

だから、心に憎しみがあっても、

それを敵視してはいけない。

そうするから、余計暴れるんだ。

心の中では全部あっていいんだ、

それが自然」

という答えを出し始めていたのです。

だから、黒点の話は、

それを後押ししてもらっている感じになって

うれしくなりました。

 

ちなみに、余談ですが、

この時のことで、

もう一つ心に残っていることがあります。

コンバットの番組中、

兵士のかじっているチーズを見て、

父が言ったのです。

「うまそうだな。ケン、

冷蔵庫にチーズが

半分残っているはずだから持って来い」

 

ケンが急いで持ってくると、

父は切りもせず、四角いチーズにかみつき、

 

「うん、やっぱり上手い。おまえも食べてみろ」

 

と、かじった跡の残るチーズを手渡しました。

 

ケンは、父を真似てチーズにかぶりつきました。

 

「どうだ、うまいだろ。

こういう食べ方もいいもんだ」

 

父とケンは、かわりばんこに、

チーズをかじり、

番組が終わる頃には食べつくしていました。

チーズについて思い出深い出来事です。

この日の気づきは、

ケンの色に対する思いを一変させたのです。

 

ケンは当時、灰色が大嫌いでした。

絵を描いても

なるべく使わないようにしていました。

なぜかというと、

黒は悪、白は正義という

イメージを持っていたケンにとって、

灰色はどっちつかずで、

悩んでいる自分に思えたのです。

灰色は黒と白を混ぜるとできます。

灰色を見るたび、

君は喜んでいないだろう、

苦しいだろうと思っていました。

つまりケンは自分が嫌いだったのです。

だから心の中に、

人を憎む自分とそれを反省する自分がいると、

なんとかして反省する自分を勝たせて、

悪い心を消そうとしていたのです。

物事に、白黒をハッキリつけ、

黒は排除して白だけにすることに、

必死になっていました。

絵具の灰色から、黒を抜き出して、

白に戻してやろうとばかりしていたのです。

心の中でイメージすれば分かりますが、

たったこれだけのことでも

エネルギーを使います。 

心の中から黒(悪)を追い出すことで、

心をスッキリさせようと試みても、

上手くいかず、かえってイライイラするのです。

でも先生の太陽の話と父の言葉で考え方が、

大きく変わり始めました。

混在する感情全体を自分だと受け入れる、

白も黒も灰色もあっていい、

いろんな色があっていい、

全体で何をなしているかを

みればいいと思ったのです。

すると灰色に対する見方が変りました。

今までは灰色がかわいそうに思えていました。

でも灰色は、

損をしているなんて思っていない、

悲しんでなんかしないと分かったのです。

 

「もし、灰色がなかったら

もっと黒()は多くなったんだ。

()全部が黒と混ざることを拒絶したら、

互いに反発するだけ。

()はもっと多くなっているんだ。

白の中で黒と混ざることを認めた白が、

灰色になって黒の働きを

閉じ込めてくれているんだ。

そして心に安らぎを保ってくれている。

灰色の中では白と黒はケンカしているのでなく、

ちょうどいい案配に

バランスを取って仲良くしているんだ。

灰色はすごい色で、

誰もが心の中に持っている

最も人間らしい色なんだ

と思うようになりました。

灰色は善悪、敵味方という白黒だけで

生きていくと、必ずケンカになるよと

いいたいのだと思います。

敵でも味方でもなく、

皆が助け合って生きることに

手を貸す色です。

だから、僕の中では

タマムシ色とともに灰色に対する

世間のイメージは、違っています。

色々な色があっていい、

 

そしてそれらの色が反応しあって

何をしているか、

その全体をみればいいのです。

色々な部品が集まれば一つの製品ができます。

でもその中の一部品にだけとらわれていては、

その製品が何をするものなのかが、

分からないのです。

 

ケンはこの時、

全体を見れば心が落ち着くんだと気がつきました。「はっ、これって」

 

と思いました。

そうです。またしても、

人間が一番バカだ(中巻②)と言った

おじいちゃんから教わったことが

答えだったのです。

人の心の中の一部だけ見ても、

その人全体がわかりません。

たとえ弱い部分があっても、

そんな部分だけに気をとられず、

心全体が何をしたかをみればいいのです。  

雨風の中、お使いを頼まれた時、

「嫌だな~、濡れるのは

嫌だから行きたくないな~」

と弱気になっても、

行って帰ってくれば、

もう何も言うことはないのです。

「嫌だな~」と思った弱い自分がいたことを、

悩んでも意味がないことです。

それよりも全体として

何をしたかが大切なのです。

弱い心があっても、

心全体としてはきちんとお使いをしたのです。

全体でみれば、何も悩む必要などないのです。

人を見る時も、これは大切なことです。

人が何を語っているかはほんの一部です。

でもその人が

どのように生きているかの全体を見れば、

その人を正確に判断できます。

学校の先生や政治家には、

聖人君子のようなことを言う人もいます。

でもその人の言葉が、

聞いている生徒や国民に浸透していかないのは、

周りがその言葉だけでなく、

生徒や国民が全体を見ているからです。

たとえば「もっと謙虚に生きなさい」

「もっと学生らしくしなさい。

学生らしい髪型をしなさい」

という先生が、威張り散らし、

パンチパーマで襟を立てて、

ポケットに手を突っ込み歩いていたら、

どうでしょうか。

生徒は言っていることとやっていることが、

あまりに違うぞと、

誰もその人の言葉を信じません。

失敗もするし、

偉そうなことも言わない代わり、

生徒を愛し、

笑みを絶やさない先生の方が

生徒を動かすのです。

それは生徒がその人の生き方を見ているからです。

一部にとらわれる心は、

自分がきちんと真理に基づいて

生きているか、自分に問うことを

忘れさせてしまいます。

そのような人に賛同するのは、

同じように全体を見ていない人だけです。

見ているのは

自分の欲がいかにしたら

満たされるかだけなのです。

一部にとらわれるということは、

コンプレックスにとらわれるということです。

コンプレックスにとらわれている人の中には、

そうでない人に会うと羨んで、

反発する人がいます。

僕もそうでした。

ヤケドの顔をけなされている僕は、

きれいな顔の子が、

ちやほやされているのを見れば、

自分にはないものばかりをねだり、

自分にも良い所があることに

気が付いていませんでした。

コンプレックスを持つことが

悪いのではありません。

コンプレックスのない人などいないと思います。

コンプレックスで卑屈になったり、

バネにしても、

誤った方向に

伸びあがったりすることが問題なのです。

コンプレックスで心がひねくれ、

上手く対処していない人は、

同様な人に近づきます。。

さらにその人が力を持っていれば

気に入られようとします。

そうすることで、

自分も権力を持ち

コンプレックスが解消されると

思うからなのだと思います。

しかし、コンプレックスを正しく

バネに出来ていない人が、

権力を持つことは、

実を言うと、気がつけば

いっそう強いコンプレックスを

持つことにつながっています。

権力を持った自分が発した一部の言葉を

自分だと錯覚しているのです。

ですから、一部の言葉だけで

判断してしまう人達からは、

一時的に絶大な支持を受け、

権力を持ちます。 

しかし、この人は自分を含め、

物事全体を正しく見るということが

できていないのです。

だから、全体に私利私欲を紛れ込ませ、

それを優先させようとします。

バレなければいい、またバレたとしても、

権力でうやむやにできると思い込んでいます。

でも、昔ならいざしらず、この情報社会です。

必ずほころびをつかれます。

ほころびは誰にもありますが、

この人達は、

それとはいっさい無縁だと言い放っていますから、

全体が明らかになってくると、

説得力がなくなってきます。

そのうちどこからか、足元をすくわれ、

あっという間に権力の座から

落ちていくことにもなりかねないし、

残念なことに、そういったことをするのも

私欲に満ちた人間であったりします。

☆ケンの気づき

 『心の安定は正しいか、

正しくないか、

敵か味方など

二者選択をすることだけでは

得られない。

その中間があってもいいと

思えれば楽になる。

相手を認め、

全体を良くするため

灰色になる白は、

どの白より白の役目を

果たしている』

 

後に、テレビの中で、善人だった人が、悪人に変わったことを嘆く主人公に対して、

 

「世の中、泥にまみれなくては

生きていけないんだよ。

ぬくぬくと生きてきたおまえに何が分かる」

と、言い訳をする犯人のセリフを聞いた時、

小学生の僕はおかしいと感じました。

 

泥にまみれるとは、

灰色になることだと僕は理解したからです。

でもこの犯人は灰色になって、

全体を良くしようとしたのではなく、

黒になって、

自分を捨てた人なのだと思ったのです。

今になって思えば、こういう人は

真理の理を敬って生きるのではなく、

私利の利を敬って道を

踏み外しているのです。

 

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結局は自分

 

えむさん

コメントありがとうございました。

 

久しぶりにブログを開いて、

えむさんからのコメントを発見しました。

とてもうれしかったです。

そして、えむさんのお役に少しでも

立てたことを、幸せに感じています。

 

そうなんですね。結局は自分なんだと、

僕は思っています。

 

そしてこの自覚こそ、頑張ることに対する、

僕の3つ目のイメージなんです。

 

最初に発行した5冊には

載せることができないで

 

コウちゃんだけには 読んでもらった原稿に

 

季節はずれの花火と太陽の話があります。

 

頑張ることに対する3つ目のイメージ、

 

結局は自分、

元気を出すか出さないかは自分しだい。

そのためには、本当はどうなりたいかを理解し、

それに向かって、太陽のごとく自分を燃やせ。

 

これに気づくことになった話です。

 

続編 ブログ 『子供に気づき』に

連載しようと思っていましたが、

 

えむさんのコメントで、

この原稿を捜しました。

見つかりましたので、読んでみて下さい。

 

季節はずれの花火と太陽の話

 

小学三年生の一月も終る頃でした。

ケンは海の近くにある友達の家へ

遊びに行っていました。

部屋で友達数人と遊んでいると、

一人が後ろにあるジュースのビンを倒して

気が付かないでいたのです。

しばらくしてから気が付いた僕らが、

慌てて片付けていると、

夏休みに買って使いかけだという

花火セットが出てきたのです。

袋はジュースで濡れていましたが、

雑巾で拭いてみると、使えそうでした。

 

「海に持って行ってやってみようぜ」

ということになり、

マッチを持って出かけたのです。

 

浜辺には雪が積もり、

かなり強い風が吹いていました。

 

三、四人いたと思いますが、

背中で風を防ぎ、

マッチで花火に火をつけました。

 

ところが、何度やっても

花火が燃え出しません。

 

「何だよこいつ、湿気っちゃって、

全然火がつかないじゃん」

 

どうやら、袋の中にジュースが残っていて、

海まで歩いてくる間に、

すっかり花火が湿気ってしまったようなのです。

 

「ちぇっ、つまんないの。」

 

「いい加減につけよ、

マッチほとんど使っちゃったよ。

このボケ花火、元気だせ。

あ~、また駄目だ。」

 

言いながら、友達は再びマッチを擦りました。

しかし、花火はやっぱり火を噴きません。

 

「こいつ根性ないな~。

ここまで来た俺たちのこと考えて、

燃えてくれっての」

 

 火付け役の友達は、

怒ったように言いながら、

今度はマッチを三本ほど一緒に擦って、

火をつけました。

大きな火が花火の先に襲い掛かりましたが、

それでも花火は願いをかなえてくれませんでした。

 

「残念だったね、帰ろう。

持って帰って乾燥させれば、

また使えるんじゃないの。」

 

寒さの中で、誰からともなく言い出しました。

 

「うん、その方がいい。もったいないよ」

 

僕らはちょっと肩を落としながら、

友達の家に戻ったのです。

 

途中、ケンは久しぶりに、

あの痩せこけた犬のことを思い出していました。

人間不信の白い犬は、

食べて元気を出してもらおうと、

いくらこっちがパンを投げても、

結局一つも食べてくれませんでした。

 

「あの犬は、人間のひどい仕打ちで、

心が湿気ってしまったんだな。

かわいそうに」

と思ったのです。

 

 

それから間もない頃でした。

 

授業で男の先生が一時間、

担任の代行で来てくれたのです。

 

その先生は宇宙に関する図鑑を持ってきて、

太陽系の話をしてくれました。

 

この時に初めて、

太陽の中心は千五百万度、

表面は六千度であることを知りました。

びっくりしてこの時、

この数字を覚えてしまいました。

どうやってあんなに遠い所の温度を、

それもそんな高温を測れたのだろうと

不思議に思い、

数値をしっかり覚えてしまったのです。

それにしても、

太陽はどうして

そんな高い熱を出すことができるんだろうと、

これまた不思議に思いました。

この先生の話の中で、

ケンの気持ちを惹きつけたのは、

その次の言葉でした。

その言葉は ケンの身体を引き起こし、

背筋を正させたのです。

「太陽が輝いているのは、

自らが燃えているからです。

地球、月、火星、水星といった星たちは、

それらの輝きによって照らされているんだよ」

 

初めて知った事実だし、

そういうことを

意識したことがありませんでした。

 

「ほんとだな。お天道様というけど 

太陽がなかったら 真暗だろうし、

寒さで生き物は生きていけないんだな。

神様みたいな星だな」

 

ケンが感心していると、

さらにケンの心を揺さぶる言葉が続きました。

 

『太陽は 自分を燃やして

これだけの熱を出しているんだね。

自分を燃やして輝いているわけだよ。

それに太陽が燃えて

元気を出してくれていないと、

照らされている星たちは

困ってしまうんだよ。

太陽が元気を失ったら、

地球は凍ってしまうね。大変な事だろう。

先生は皆に

太陽のような人間になって欲しいと思っています。

照らされるより、

照らす人間になって欲しいんです。

太陽は地球達に対して、

自分だけがエネルギーを使って、

そのおかげでまわりが得をしているから、

自分は損をしているなん