母は 続けてこう言いました。
「 でも 両方見ることができて良かった。どちらにしても とにかく 戦争はい
けないよ。本当に何もなくなってしまう。あと一年 戦争が長引いていたならば
お父ちゃんも おそらくいなかった。つまり おまえたちも いなかった 」
僕は 今更ながら 70年前(1945年 昭和20年)の8月15日 終戦を迎えていなかっ
たならば 自分はいなかったかもしれないという事実に驚かされました。
侵略するための戦争 自国を守るための戦争 どちらにしろ 戦争になれば 多く
の人の命が失われ 失われた命それぞれには その命を悲しむ家族・友人がいま
す。これは 相手国も同じことです。会いまみえる若い兵士どうしは お互いに
憎しみはありません。しかし 出会ってしまえば 殺らなければ 殺られるという
異常な世界が戦争です。毎日 毎日 明日は死ぬかもしれないと 思って過ごすの
ですから 本当に心休まることはなかったでしょう。
母は続けました。
「 8月15日 14歳だった お母ちゃんは 玉音放送を 聞いた時 一語一語の
意味は よく分からなかったよ。ただ ああ 日本は負けたんだと思い 家に帰っ
たよ 」
結核で寝たきりの兄は 日本の敗戦を信じず「 神国 日本がアメリカになんか負
けるわけがない 」と大変な剣幕で怒ったそうです。
しかし 戦地に行っていた二人の兄が帰ってくると 敗戦を信じるしかなかったよ
うです。帰ってきた兄の一人は 人間魚雷として 特攻が決まっており 少し長引
けば 帰らぬ人になっていたといいます。本当に良かったです。
二人の兄が 帰ってきたことで 安心したのでしょう。
「 正乃(母の名前) これで 兄ちゃん死ねるね 」
と言い それから間もなく亡くなったのです。
再び 当時の話をし始めた母は この兄を思い出し 言いました。
「 自分が死んだら お母ちゃん 一人きりになってしまうと 必死に 病気と
闘っていたんだね。 優しい人だったよ 」
母の言葉で 小学生の頃 終戦の話をしてくれた時を はっきりと 思い出しまし
た。この結核を患っていた兄は 毎日のように 洗面器いっぱいの血を吐き 妹で
ある母が 面倒をみていたそうです。
当時 母はこの兄について こう言っていたのです。
「 真ん中の兄ちゃんは お母ちゃんを一人にしちゃいけないと 一口60回かんで
食べてたんだ。必死になって かんでいた 」
この話を聞いた時 「 このお兄ちゃんは 結核をアメリカだと思って 戦ってい
るに違いない。僕のお母ちゃんを守るために 戦争に行っていると同じくらい 厳
しい戦いを毎日してるんだ 」と 目頭が熱くなりました。
母の昔話が一段落すると 僕の口から 自然と 次のような言葉が出ました。
「 とにかく 天皇が終戦を決断したことは良かったね。戦争を続行していたら
今 どうなっていただろうね。 新潟にも 原爆落とされて ここらへん 悲惨
だったろうね 」
「 ああ ほんとだ。ただ 敗戦が分かっていたのなら もう少し早く 終わらせ
るべきだった。最後の数か月で どれだけ 特攻なんかで 無駄な死に方をした若
者がいたことか。 春にやめていれば ものすごくたくさんの命が 救われたはず
だ 」
母の言葉に 僕は 映画の中で描かれている天皇の苦悩が 観る人によって いろ
いろに 感じられるものであることを知りました。
僕は 母の言葉で 「戦争を早期終結すべき」という近衛文麿(このえふみまろ)の
上奏(終戦の年の2月14日)を思い出したのです。この上奏を認めず 天皇と軍部は
戦争を続けたようです。
近衛文麿と言えば 日独伊三国同盟を結び 太平洋戦争を開始するお膳立てをして
勝手に退陣した首相として有名な人物です。この後を受け継いだ東条内閣は 戦争
に突入するしかなかったとも言われています。
ただし この上奏の趣旨は これ以上の犠牲者を出さないためというよりも 日本
の共産化を防ぎたいというものだったようです。
「 日本の敗戦は免れない。そして このまま長引けば ソ連軍が介入して来る。
ソ連に占領されてしまえば 日本は共産化されてしまう。そうならないためには
資本主義のアメリカに早く降伏し 戦争の終結をすべき 」という感じのものだっ
たのでしょう。
この上奏がなされた時点で 天皇と軍部の誰が本当に 国民のためを思って 終戦
を考えていたかは分かりません。
昭和天皇が 実は飾り物でなく 軍の決定にも自らの意思を きちんと伝えていた
という説もあり そうであったならば 近衛文麿の上奏時点では 天皇も戦争終結
を 先延ばしにしようと考えていたことになります。
天皇が この時点で 近衛の上奏する理由はともかく 敗戦は避けられない事実と捉え
これ以上の犠牲者を出したくないと これを受け入れていれば 広島と長崎への原爆は
なかったことになるのです。
だから 終戦後 天皇がマッカーサーとの会見で述べられた言葉に対する解釈も 人そ
れぞれなのだと思います。
天皇は「戦争責任は 日本国民にではなく すべて自分にある」と述べられたと言いま
す。これを「あなただけの責任ではありません。あなたを飾り物にして 戦争を推し進
めた軍部に大きな責任があります。それなのに ありがたい 国民を守るお言葉です」
と解する人もいれば「当たり前です。あなたの責任で始められた戦争ですから」と 考
える人もいるということです。
戦後生まれの僕には 当然ながら 天皇が その当時 戦争をどのように 考えて
いたか 本当のことは分かりません。
しかし 紛れもなく 1945年(昭和20年) 8月15日の時点では終戦を考えていたこ
とは 確かです。
終戦後 天皇の責任について いろいろな意見があります。アメリカが占領した日
本を 上手くコントロールするために 天皇の責任を不問にし 天皇制を残したと
いう意見にも 一理あると思います。
ただ その後 昭和天皇は 戦争によって失われた命への贖罪を感じながら 立
派に 生きられたと感じています。大切なのは 天皇家が 戦後 どう生きてきた
かだと思うのです。
「 天皇が神格されていたあの時代 遅かったとはいえ 戦争を終わらす決断をし
た天皇は立派だった。今の天皇も立派だ。そして 美智子妃殿下なんか ほんと
に立派だ。二人はどこに出しても 恥ずかしくない。本当に仲が良いし 平和を
願っている 」
しみじみ言う 母の言葉に 戦後の天皇家が歩んでこられた道が正しく これか
らも 日本の象徴である 天皇家が そうであって欲しいと 僕は 思いました。
日本で一番長い日 それは現人神であった天皇が人になった日とも言えます。国民
に植え付けた 現人神という洗脳を利用して 神が治める国は絶対に負けないという
根拠のない意識を 軍人や国民に刷り込んだ政府の責任は 大きいと思います。
昭和天皇の責任の是非には、さまざまな思いがあるでしょう。天皇家に生まれた一
人の人間が 当時 何を考え 生きていたかは 分かりません。そこばかり 根掘
り葉掘りしていても 答えは水掛け論になるばかりだと思います。
それよりも 戦争を知らない我々は 戦後の天皇家が どう生きてきたかを素直な
目で見ることが 重要ではないだろうかと 思うのです。
今の天皇と皇后を見ると お二人は 力を合わせて 間違いなく 世界の平和を
祈って生きておられると 感じずにはいられません。
コメントをお書きください