もうすぐ4月になります。
人間には1年に少なくとも2回、
新たな決意をする機会が巡って来ると、僕は思っています。
その時期とは、元旦と4月です。
でも元旦より4月の方が、決意に対して、
不安を強く感じると思います。
それは、学校や仕事の転機でもあり、
今までと違ったことをすることになるからです。
今までの心配の他に、さらに新たな心配が加わります。
心が平常であれば、この不安の他に期待感もあり、
そちらに気持ちを持っていくことで、
前向きに生活していくことができます。
しかし、心がかき乱されている場合、
春という温かい季節が、沈んでいる自分の心と反対で、
いっそう気が重くなってしまいます。
3年生になったばかりの4月、僕はとても不安な気持ちでした。
いじめに対して、どうしたらよいのか分からず、
ただ、ただ自分の将来が心配でした。
これは、当時の僕だけでなく、
現在、仕事に対する悩み、人間関係に対する悩み、
家族に対する悩み、健康に対する悩みを
抱えておられる人達も、同じではないかと思います。
当時の僕は、朝食を食べた後に、
襲ってくる吐き気(上巻ː味噌汁)も増し、
自分が学校に行きたがっていないことも
より強く感じるようになってきていました。
「行きたくない。でも、行かなくちゃ、
今まで頑張りがすべてダメになる。
お母ちゃんのあの涙はもうごめんだ。
それにしても、僕は、これからどうなるんだろう」
こんなことばかり、考えていました。
しかし、翌年の春(4年生の春)、
そう考えていたことが、間違いだったことに気がつきました。
この春は、まさしく春でした。
ぼくにとって、とても思い出深い4月です。
2年間続いた、いじめという冬を通り抜けて、
訪れた春だったからです。
いじめは、終わったのですが、僕にはよく分かっていました。
たとえ、いじめがなくなったとしても、
心が回復していなければ、
再び起こるかもしれないいじめに対して、怖れおののき、
このように、春の日差しを
素直に受け止められていないと思ったのです。
半年前、いじめを乗り切ろう、僕なら乗り切れると、
信じることができていなければ、
この春は来ていないと、感じていたのです。
3年生の春、僕はいじめっ子とはいえ、
毎日、その子たちの死を願っていました。
祈りの中で、そんな自分を
神様の前で隠そうとすることに苛立ったり、
告白しても、そんな自分に罪深さを感じていました。
人の死を願う自分が、嫌でたまりませんでした。
そして、こんなことを思わない自分にして下さいと
これまた毎日、お願いをしていたのです。
だが、それがかなわない毎日に、言葉には出しませんが、
神様に対してさえ、愚痴をこぼしている自分を自覚し、
ますます自分が嫌いになっていきました。
う~ん、よく分かってもらえないかも、しれませんね。
もし、いたなら気に入らない人を思い浮かべて下さい。
その人に向かって
「死ね、死ね、消えてなくなれ、苦しんで死ね、死んでしまえ! 」
と、心の中で、本気で数回思って見て下さい。
いない場合は、できないかもれませんね。
でも、その時のあなたの気持ちを、感じてみて下さい。
ものすごく嫌な気持ちになると思います。
中巻①に書いたように、小さい頃から、
祈りと一緒に生きてきた僕には、ものすごい苦痛でした。
自分は罰当たりだと思いました。
こんな思いを持っている自分は、
決して幸せになれないと感じていました。
死んでも、きっと天国にはいけないだろうと思っていました。
「僕は治すことができない、人を憎む病気にかかっている」
と思いました。
-続く-
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