扱いにくい子は、本人が苦しんでいます

 

久しぶりの更新です。ちょっと風邪ぎみ。鼻水たらたら。

や、やばい! 健康だけが取り柄なのに。

あったかい物を食べて、今日は良く寝ようと思います。

 

では今日のお話しです。

 

僕は7歳、8歳の時の辛い体験を、

今はすべて悪い体験だったとは思っていません。

当時は本当に辛い毎日でした。

人を憎み、自分をさげすみ、

人を信じられなくなってしまいました。

デスノートの項で書いたように、

鬼畜の世界にいた時もありました。

恨んでも苦しくなるだけと分かっていても、

相手を憎まずにいられない自分の心を、

どうしたらよいか分かりませんでした。

だから、病院の裏山で、

それこそ、人が見たら狂った人間のように奇声を上げ、

わめき散らし、周りの木々を殴りつけていました。

これを人がいる所でやっていたならば、

大問題になっていたと思います。

 

一しきり怒りを発散した後、

一人考えた僕は、一生懸命自分をコントロールして、

バカにされても言い返さないでおこうと思いました。

 

「ミミズ、世界の為に早く死ね」と言われても、

「そんなこと言われても気ににしねぇ~よ」

 

と言い返すことで、自分の怒りをおさめようと必死でした。

 

でも、口ではそう言ってはみるものの、心の中は

「こいつ死んでしまえ、死ね、死ね、本当に死ね、今日中に死ね!」

と思っていました。

そしてそんな自分が嫌で嫌で、たまらなくなるのでした。

「これでは、あいつらと同じではないか、

大嫌いなあいつらと僕は変わらない。

くそ、くそ、くそぉ~、がぁ~、大嶋健なんか死んじまえ~」

って絶叫し、勝手に流れ出る涙にむせていました。

 

そんな僕を救ってくれたのは、

本に書いたように発達しょうがいのある少年達でした。

 

僕と同様、ひどい言葉を言われているのに、

平然としている彼らに衝撃を受け、丸い強さを感じました。

とがって気張っている自分がものすごく不安定で、

もろく感じたのです。

 

彼らのありのままで生き生き生きている姿が、

頭から離れなくなりました。

そしてある日のことでした。

 

誰も気がついてくれず一人悩んでいた僕に

「大丈夫、どうしたの?」

と声をかけてくれた別の少年がいたのです。

 

思わず涙が流れました。

何よりも驚いたのは、声をかけてきた少年は、

1年ほど前、僕を蹴り飛ばしたことがある少年だったのです。

 

僕は体重が軽かったので、

いじめで下駄箱の上に投げ上げられた靴を取るため、

器用に下駄箱を登ることができました。

しかし、ある日、ずいぶん体の大きな少年が下駄箱を登っていて、

危なっかしかったのです。

というより、何か独り言を言いながら、

何度か登っては、失敗して落ちていたのです。

再び登ろうとする彼に、体重が軽く、

登ることに慣れている僕は、

僕と同じように、靴を投げ上げられてしまったのかもしれない。

だったら、僕がとってあげようと思って、声をかけたのです。

 

「危ないよ、降りた方がいいよ。僕慣れてるから、

取ってきてあげる」

 

僕がそう言った時でした。

 

突然、彼は僕のお腹を蹴飛ばして、奇声を上げたのです。

 

ふっ飛ばされた僕はとても怖くなり、

その場を逃げ出してしまいました。

 

「何だったんだろう、どうしてあの子は怒ったのだろう」

 

理解できず、彼をとても恐ろしく感じました

そして、怒りも感じました。

 

少し時間が経ってからでした。

もういないはず、帰ろうと思って下駄箱に行くと、

なんと彼は奇声を上げながら、まだ登ろうとしていたのです。

相変わらず失敗しては、落ちることを繰り返していました。

 

また暴力を振るわれるのは嫌なので、

僕は彼と反対側から下駄箱を登ってみました。

すると思った通り、外履きが投げ上げられていました。

僕はそれを取ると、彼のいる側へ投げ落とし、

急いで下りて隠れました。

彼は外履きを履くと、再び訳の分からないことを叫びながら、

下駄箱から飛び出して行ったのです。

 

その後、彼が発達しょうがいであることを知りました。

 

当時は発達しょうがいという言葉はなく、

今で言う差別用語で彼を表現していました。

 

あいつはき○が○だから近づかない方がいい、

人間の心を持っていないという話も聞きました。

ただ、僕は、そういう少年だと分かったことで、

彼に対する怒りは消えてしまいました。

彼はわざと僕を蹴ったのではないことが分かったからです。

 

僕はそれから時々彼らを見ると、

そっと観察するようになりました。

すると彼らは僕と同じように、一人で荒れていたり、

悩んでいたりすることが多いことが分かったのです。

 

僕がひどいいじめを経験していなければ、

彼らを他の人達同様にき○が○、

人間の心を持っていないと

批判していたのではないかと思います。

 

人は他人と同じでないと異常とか、人間ではないといいがちです。

 

だが、その○が○い、人間の心を持っていないと言われている

少年が、僕にやさしい言葉をかけてくれたのです。

そして本人は僕同様、

どのように自分をコントロールしていいいか分からないで

悩んでいたのです。

 

彼らは辛いのは僕だけじゃない、

他人だって辛いことがあるということに気づかせてくれたのです。

それからというもの、他人の思いを考えるようになりました。

 

 

簡単に言えば、相手の気持ちになって物事を考えるように

なってきたということです。

すると相手の身になって考えることで、

怒りが小さくなっていくことを感じました。

どうしてこんなことを言うのかと腹を立てるより、

何か腹が立つことがあったんだな、

早くいつもの自分に戻れるといいねと考えることができた日、

ものすごく心が軽くなり、心地よさを感じたのです。

これが恨み、憎しみ、猜疑心をなくしていく方法なんだと

分かって来たのです。きらいな相手について、

一つ幸せを祈るという約束も、

こういった体験から始めたことでした。

 

そして本にも登場した人間が一番バカだというおじいさんの

言葉が思い出されました。

相手の身になって考えるくらいじゃダメ、

相手になり切るくらいじゃないと、

相手の痛みなんて分からない。

 

相手の気持ちになって考える。

今でも、上手く出来ませんが、おそらくこれらの体験が

なかったならば、僕は今以上に他人のことに

無関心な人間になっていたと思います。

(やたら無作法に関心を持ち、いろいろ言うのは、これまた

相手の気持ちを思いやっていません。もし自分だったらと

考えると、心ない批判の言葉は出てこないはずです。)

 

そしてこの体験は、教師になってから、

親や教師にとって困った生徒は、

その生徒自身がとても困っているという思いに

つながっていきました。そしてその通りでした。

彼らに対して、特別なことはできませんでした。

でも、その思いをくみ取り寄り添って話を聞くことだけで、

彼らの目に生気が蘇ってきたことが、しばしばありました。

大人が扱いにくいと困る子は、それ以上にその子自身悩んでいる、

そんな子に出会ったら、このことを思い出してみて下さい。