灰色のすばらしさ

 

今回も、本に載せられなかった原稿です。

 

前回の季節はずれの花火と太陽の話の続きです。

 

灰色のすばらしさ

 

さらにケンを元気づけたのは、

「太陽には黒点と呼ばれる部分があって、

他の部分より温度が低く、

その数が増減する」という内容でした。

 

ケンは勝手に、

黒点とは太陽の弱い心、

悪いことを考えてしまう心と解釈したのです。

太陽にも弱い部分がある。

でも全体としてあんなに輝いて、

皆を照らしているんだ。

 

「間違いない。

善いも悪いも両方あっていいんだ

当時、ケンは心に生まれる

いじめっ子を憎む気持ちを憎み、

苦しんでいました。

いくらなくそうと思っても

なくならない憎しみに対して、

一人悶々としていたのです。

そんな時、

テレビ番組コンバットを一緒に見ていた父が、

こんなことを言ったのです。

父は忙しくて、

一緒にテレビを見ることなどまれなことでした。

その父が言った言葉なので、

今でも覚えています。

 

「これはアメリカの番組だから

ドイツ兵がたくさん殺されるのは当たり前だ。

でもこの話みたいに、

普通のドイツ人がアメリカ兵を憎むのも、

当然のことだ。

憎んでサンダース達に

抵抗するドイツ人が悪いんじゃないぞ。

戦争で家族を失った人は、

家族を殺した見知らぬ相手に対して、

国に対して憎しみを持つようになる。

それを持つなというのが無理な話だ。

だからどっちの国も、

戦争で家族を失くした人は、

悲しみと憎しみ、

残った家族を

守らなくてはいけないという使命感、

誰もがそれと闘いながら生きていたんだな。

戦争とは人間を

そういう不幸に陥れてしまう。

娯楽だからいいが、

こうやってどちらかが殺されれば、

どんな人間であっても、相手が憎くなる。

憎しみはいけないというが、

家族がこうやって殺されたら、

お父ちゃんだって、相手を憎むわな。

心ってそういうもんだ」

 

ケンは、父の言わんとする意味とともに、

憎しみは不幸のもとであるが、

自分が弱すぎるから、

異常だから持つものではないと、

教わった気がしました。

 

とても気が楽になったのを覚えています。

 

「そう、あんなこと

(いじめで、ケンに対して行われた、

数々の嫌がらせ)をされれば

憎しみが湧かないわけがない。

確かに憎しみは良くないけれども、

憎しみを持った僕が悪いのではない。

だから、心に憎しみがあっても、

それを敵視してはいけない。

そうするから、余計暴れるんだ。

心の中では全部あっていいんだ、

それが自然」

という答えを出し始めていたのです。

だから、黒点の話は、

それを後押ししてもらっている感じになって

うれしくなりました。

 

ちなみに、余談ですが、

この時のことで、

もう一つ心に残っていることがあります。

コンバットの番組中、

兵士のかじっているチーズを見て、

父が言ったのです。

「うまそうだな。ケン、

冷蔵庫にチーズが

半分残っているはずだから持って来い」

 

ケンが急いで持ってくると、

父は切りもせず、四角いチーズにかみつき、

 

「うん、やっぱり上手い。おまえも食べてみろ」

 

と、かじった跡の残るチーズを手渡しました。

 

ケンは、父を真似てチーズにかぶりつきました。

 

「どうだ、うまいだろ。

こういう食べ方もいいもんだ」

 

父とケンは、かわりばんこに、

チーズをかじり、

番組が終わる頃には食べつくしていました。

チーズについて思い出深い出来事です。

この日の気づきは、

ケンの色に対する思いを一変させたのです。

 

ケンは当時、灰色が大嫌いでした。

絵を描いても

なるべく使わないようにしていました。

なぜかというと、

黒は悪、白は正義という

イメージを持っていたケンにとって、

灰色はどっちつかずで、

悩んでいる自分に思えたのです。

灰色は黒と白を混ぜるとできます。

灰色を見るたび、

君は喜んでいないだろう、

苦しいだろうと思っていました。

つまりケンは自分が嫌いだったのです。

だから心の中に、

人を憎む自分とそれを反省する自分がいると、

なんとかして反省する自分を勝たせて、

悪い心を消そうとしていたのです。

物事に、白黒をハッキリつけ、

黒は排除して白だけにすることに、

必死になっていました。

絵具の灰色から、黒を抜き出して、

白に戻してやろうとばかりしていたのです。

心の中でイメージすれば分かりますが、

たったこれだけのことでも

エネルギーを使います。 

心の中から黒(悪)を追い出すことで、

心をスッキリさせようと試みても、

上手くいかず、かえってイライイラするのです。

でも先生の太陽の話と父の言葉で考え方が、

大きく変わり始めました。

混在する感情全体を自分だと受け入れる、

白も黒も灰色もあっていい、

いろんな色があっていい、

全体で何をなしているかを

みればいいと思ったのです。

すると灰色に対する見方が変りました。

今までは灰色がかわいそうに思えていました。

でも灰色は、

損をしているなんて思っていない、

悲しんでなんかしないと分かったのです。

 

「もし、灰色がなかったら

もっと黒()は多くなったんだ。

()全部が黒と混ざることを拒絶したら、

互いに反発するだけ。

()はもっと多くなっているんだ。

白の中で黒と混ざることを認めた白が、

灰色になって黒の働きを

閉じ込めてくれているんだ。

そして心に安らぎを保ってくれている。

灰色の中では白と黒はケンカしているのでなく、

ちょうどいい案配に

バランスを取って仲良くしているんだ。

灰色はすごい色で、

誰もが心の中に持っている

最も人間らしい色なんだ

と思うようになりました。

灰色は善悪、敵味方という白黒だけで

生きていくと、必ずケンカになるよと

いいたいのだと思います。

敵でも味方でもなく、

皆が助け合って生きることに

手を貸す色です。

だから、僕の中では

タマムシ色とともに灰色に対する

世間のイメージは、違っています。

色々な色があっていい、

 

そしてそれらの色が反応しあって

何をしているか、

その全体をみればいいのです。

色々な部品が集まれば一つの製品ができます。

でもその中の一部品にだけとらわれていては、

その製品が何をするものなのかが、

分からないのです。

 

ケンはこの時、

全体を見れば心が落ち着くんだと気がつきました。「はっ、これって」

 

と思いました。

そうです。またしても、

人間が一番バカだ(中巻②)と言った

おじいちゃんから教わったことが

答えだったのです。

人の心の中の一部だけ見ても、

その人全体がわかりません。

たとえ弱い部分があっても、

そんな部分だけに気をとられず、

心全体が何をしたかをみればいいのです。  

雨風の中、お使いを頼まれた時、

「嫌だな~、濡れるのは

嫌だから行きたくないな~」

と弱気になっても、

行って帰ってくれば、

もう何も言うことはないのです。

「嫌だな~」と思った弱い自分がいたことを、

悩んでも意味がないことです。

それよりも全体として

何をしたかが大切なのです。

弱い心があっても、

心全体としてはきちんとお使いをしたのです。

全体でみれば、何も悩む必要などないのです。

人を見る時も、これは大切なことです。

人が何を語っているかはほんの一部です。

でもその人が

どのように生きているかの全体を見れば、

その人を正確に判断できます。

学校の先生や政治家には、

聖人君子のようなことを言う人もいます。

でもその人の言葉が、

聞いている生徒や国民に浸透していかないのは、

周りがその言葉だけでなく、

生徒や国民が全体を見ているからです。

たとえば「もっと謙虚に生きなさい」

「もっと学生らしくしなさい。

学生らしい髪型をしなさい」

という先生が、威張り散らし、

パンチパーマで襟を立てて、

ポケットに手を突っ込み歩いていたら、

どうでしょうか。

生徒は言っていることとやっていることが、

あまりに違うぞと、

誰もその人の言葉を信じません。

失敗もするし、

偉そうなことも言わない代わり、

生徒を愛し、

笑みを絶やさない先生の方が

生徒を動かすのです。

それは生徒がその人の生き方を見ているからです。

一部にとらわれる心は、

自分がきちんと真理に基づいて

生きているか、自分に問うことを

忘れさせてしまいます。

そのような人に賛同するのは、

同じように全体を見ていない人だけです。

見ているのは

自分の欲がいかにしたら

満たされるかだけなのです。

一部にとらわれるということは、

コンプレックスにとらわれるということです。

コンプレックスにとらわれている人の中には、

そうでない人に会うと羨んで、

反発する人がいます。

僕もそうでした。

ヤケドの顔をけなされている僕は、

きれいな顔の子が、

ちやほやされているのを見れば、

自分にはないものばかりをねだり、

自分にも良い所があることに

気が付いていませんでした。

コンプレックスを持つことが

悪いのではありません。

コンプレックスのない人などいないと思います。

コンプレックスで卑屈になったり、

バネにしても、

誤った方向に

伸びあがったりすることが問題なのです。

コンプレックスで心がひねくれ、

上手く対処していない人は、

同様な人に近づきます。。

さらにその人が力を持っていれば

気に入られようとします。

そうすることで、

自分も権力を持ち

コンプレックスが解消されると

思うからなのだと思います。

しかし、コンプレックスを正しく

バネに出来ていない人が、

権力を持つことは、

実を言うと、気がつけば

いっそう強いコンプレックスを

持つことにつながっています。

権力を持った自分が発した一部の言葉を

自分だと錯覚しているのです。

ですから、一部の言葉だけで

判断してしまう人達からは、

一時的に絶大な支持を受け、

権力を持ちます。 

しかし、この人は自分を含め、

物事全体を正しく見るということが

できていないのです。

だから、全体に私利私欲を紛れ込ませ、

それを優先させようとします。

バレなければいい、またバレたとしても、

権力でうやむやにできると思い込んでいます。

でも、昔ならいざしらず、この情報社会です。

必ずほころびをつかれます。

ほころびは誰にもありますが、

この人達は、

それとはいっさい無縁だと言い放っていますから、

全体が明らかになってくると、

説得力がなくなってきます。

そのうちどこからか、足元をすくわれ、

あっという間に権力の座から

落ちていくことにもなりかねないし、

残念なことに、そういったことをするのも

私欲に満ちた人間であったりします。

☆ケンの気づき

 『心の安定は正しいか、

正しくないか、

敵か味方など

二者選択をすることだけでは

得られない。

その中間があってもいいと

思えれば楽になる。

相手を認め、

全体を良くするため

灰色になる白は、

どの白より白の役目を

果たしている』

 

後に、テレビの中で、善人だった人が、悪人に変わったことを嘆く主人公に対して、

 

「世の中、泥にまみれなくては

生きていけないんだよ。

ぬくぬくと生きてきたおまえに何が分かる」

と、言い訳をする犯人のセリフを聞いた時、

小学生の僕はおかしいと感じました。

 

泥にまみれるとは、

灰色になることだと僕は理解したからです。

でもこの犯人は灰色になって、

全体を良くしようとしたのではなく、

黒になって、

自分を捨てた人なのだと思ったのです。

今になって思えば、こういう人は

真理の理を敬って生きるのではなく、

私利の利を敬って道を

踏み外しているのです。