クリスマスに思う事

 

今年もあっという間に過ぎ去ろうとしています。

 

おそらく、これが今年最後のブログだと思います。

 

読んで下さった皆様、ありがとうございました。

 

インフルエンザ、ノロウィルスが

 

猛威を振るっていますが、

 

体調管理に気を付けて、良い正月を迎えましょう。

 

としこさんコメントありがとうございます。

 

Youtubeで聴いてみましたか?

 

でもあまりに多くのウルトラマンがいることに

 

唖然としたのではないですか? 僕も驚きました。

 

ちなみにYoutubeのロングバージョンで

 

ギンガと一緒に戦っている

 

頭にvが付いているウルトラマンは

 

ウルトラマンビクトリーっていうらしいです。

 

それから頭に二つアイススラッガーがついている

 

ウルトラマンは、ウルトラマンゼロといいます。

 

なんとあのウルトラセブンの息子で

 

めっちゃくちゃ強いらしい。

 

なんせウルトラの国(M78星雲 

 

オリオン座近くに実在)

 

悪いウルトラマンベリアルによって

 

滅亡寸前まで追い込まれた時、

 

このゼロが活躍してウルトラの国を救ったそうです。

 

すべて 例の小学生から 教えてもらいました。()

 

いやはや、知らない間に いろいろな事が

 

ウルトラマンにも起こっていたんですね。

 

昨日はクリスマス。 そして 今日 帰りに 池袋で 

 

年賀状を 買い 街に出ると  キリストの教えを

 

スピーカー放送していました。

 

「聖書は 言っています。 人は すべて 罪人だと」

 

信号待ちをしている間に 聞こえてきました。

 

「まあ、そうだろうな」

 

と、 思いながら 小学校時代の 

 

クリスマスを 思い出していました。

 

毎年 クリスマスツリーを 飾っていました。

 

最先端にある ベツレヘムの星をつけながら

 

この星はキリスト様が 生まれた星、

 

つまり、神様が住んでいる星なんだと 思っていました。

 

ベツレヘムの星について 詳しいことは 知りませんでした。

 

3人の賢者が東の国では 見たことのない星を西の空に見出し、

 

追いかけてベツレヘムに来ると キリストを抱いたマリアがいた。

 

という話は、中学校の時 聖書に関する本を読んで知りました。

 

おそらく 小学校の時も 絵本に 書いてあったのでしょうが

 

記憶に 残っていませんでした。

 

賢者たちから 自分にとって代わる赤子が生まれたことに 

 

怖れを抱いたヘロデ王は、2歳以下の赤子を

 

殺すように指示を 下します。

 

しかし、すでに天使のメッセージを受けていた

 

父ヨセフの機転で、幼子イエスは

 

母マリアと共にエジプトに脱出して 助かったのです。

 

さて、クリスマスは キリストの誕生日を祝う日として

 

世界中に知られています。

 

が、本当は、誕生日を祝う日ではなく 

 

イエス様がこの世に誕生したことを祝う 感謝の日のようですね。

 

30年程昔、生徒に

 

「よくイエスの誕生日が12/25日だと分かったね。

 

記録でも残っていたの?」

 

と聞かれ、調べたことがあったのです。

 

「あっ、ほんとだ。誕生日ではないんだ」

 

だと知った次第。

 

聖書の中にも記述はなく、 本当の誕生日は分からないんですね。

 

馬小屋で生まれたのも嘘だという本も、

 

さらに イエス・キリストは  存在していなかったのでは

 

なんて本も 読んだことがあったような・・・・

 

ただ、放牧をしていた時期に生まれたのは 確かなので、

 

春から秋にかけて(大雑把(^_^;)) 生まれたらしいです。

 

何よりもその時、「面白いな(@_@)」と 思ったのは、

 

イエスは双子で 処刑されたのは

 

双子の弟だったという説を 読んだ時でした。

 

僕は『楽になりたいなら生きていけ 中巻①』

 

の書いたように、小学校当時キリスト教が好きでした。

 

マリア園という キリスト教幼稚園に 入園してから

 

ずっと お祈りをしてきました。

 

そして、いじめから自分を救ってくれない

 

イエス・キリストを始め、世界中の神様を 否定しました。

 

そんな中で、 自分の神様を作り出しました。

 

その後、一度捨てた キリストへの思いも 蘇りました。

 

それは キリスト信仰ではなく キリストの説く 愛の意味は

 

僕の信じる神様と 同じなのだろうという意味です。

 

詳しくは 本をお読みください。

 

キリストを 否定するとか 上から目線で そう感じたのでは

 

ありませんでした。

 

さらに中学校の時、小学校では 絵本でしか読んだことのない

 

聖書の実物を拾い読みし、衝撃を受けました。

 

なぜ、聖書を 読んでみる気になったのか

 

当時 ふと いじめの期間 思ったことを

 

思い出したのです。

 

「命あるものは 死ぬ直前に 感謝して 死ぬことができれば

 

幸せなんじゃないだろうか?

 

どんなに 辛い人生であっても 

 

本人が 僕は よく頑張ったと

 

自分を ほめることができれば 幸せなのではないか。

 

そうだ! イエス・キリストは 最後に 何を 思ったのだろうか?

 

弟子に裏切られて 捕まり 十字架にかけられた。

 

でも おそらく 最後は

 

「神様 私は 頑張りました。 神様のお役に立てたとしたら 

 

幸せです。こうして 私を十字架にかけている彼らは

 

何をしているのか 分からないのです。

 

だから 我が子(神の子)を 処刑している 彼らを お許しください。

 

今 私が死ぬことで 彼らが目を覚まし 神様の元へ 

 

向かうことができたとしたならば

 

こんな 幸せはありません。 命をありがとうございました」 

 

こう 思って 死んでいったのだろう。

 

小学校の僕は そう思っていたのです。

 

それを確かめたいと 思ったのです。

 

しかし マタイによる福音書に書いてある

 

イエス処刑の部分は こんな感じでした。

 

ある金曜日   場所はゴルゴダの丘、

 

はりつけにされてから 数時間が経ち お昼になりました。

 

当たりは、真暗になります。

 

このような記述と 地中海地方の当時の天候から考えて、

 

ある金曜日は 4月7日当たりだ と言われていますが、

 

定かではありません。

 

4月3日という説もあります。

 

僕らは まあ、4月の初め頃 と思っていれば

 

いいのではないかと思います。

 

金曜日なのは、記述から確かみたいです。

 

余談ですが、よく不吉だという13

 

『最後の晩餐』の時いた人数が 13人だったから

 

という説があるようです。

 

だから高校の時13番だった僕は、

 

「うむむむ・・・いかす出席番号じゃん(^_^;)・・・」

 

と 一人少し落ち込んでいました。

 

ジェイソンで有名な映画『13日の金曜日』 の

 

不吉な13日と金曜日は ここからきているとか。

 

あっ いけない。イエスの処刑の場面でしたね。

 

ゴルゴタの丘で十字架にかけられた男3人。

 

真ん中の十字架がキリスト 両脇は強盗を働いた男二人です。

 

民衆は はりつけにされたキリストに向かって こう ののしります。

 

「他人を救っても 自分を救えない 哀れなユダヤの王よ。

 

神の子なら そこから自分を救って見せろ」

 

「神の子なら 神様を呼んでみろ。それができたなら

 

おまえを信じてやる。 さあ やって見せろ」

 

さらに 一緒に はりつけにされている 強盗二人までもが

 

 同じように イエスを ののしります。

 

イエスは絶叫します。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

「神様、神様、なぜ私をお見捨てになったのですか?」

 

という意味であると書いてありました。

 

神様に対するキリスト最後の言葉が

 

これなのか? 明らかに 神様に 失望している。

 

やりきれない・・・・・ 切ないものを感じました。

 

そして どこかで 聞いたことのある言葉だと 思いました。

 

民衆の一人が 海綿にブドウ酒を含ませ

 

棒の先端につけて イエスに 飲ませようとしますが 

 

引き留められます。

 

「待て! きっと 今 キリストは 神に救いを求めたのだ。

 

神が助けに来るか 様子を見てみようぜ 」

 

しかし、神はイエスを 助けには 来ませんでした。

 

イエスは 再び 同じことを絶叫し 

 

そのまま 午後3時頃 息を 引き取ります。

 

すると 神殿の垂れ幕は 真っ二つに引き裂かれ

 

地震が起き 岩が裂け 墓からは 聖徒が 生き返った。

 

このような事が 書いてあったと 記憶しています。

 

「最後に 最も 信頼していた神へ 訴えたこの言葉。

 

まさか これは どんなに祈っても いじめをなくしてくれない

 

神様に対して 僕の祈りは聞こえていないのですか? 

 

どうしてこんなに真剣に 祈っている僕の言葉を

 

聴いてくれないのですか? なぜです? 

 

なぜです? どうしてですかぁ~」

 

あの時の僕と 同じ事? 

 

まさか 世界の聖人の最後の思いが

 

こんな 思いだなんて・・・・・そんなはずないよな。

 

だったら この言葉の意味は どういうこと? 

 

まさか キリスト自身 死ぬ直前幸せでは なかったのか? 」

 

中学生の僕にとって 切実な問題でした。

 

当時の僕は 人が幸せに 死ねる=力いっぱい生きること

 

と 考えていました。(今もです)

 

小学校の時 悩みの中で 見出したこの答えは

 

受難の中 死んでいった キリストが

 

証明してくれるだろうと 確信していたのです。

 

それなのに キリストの最後の言葉は

 

神様を 恨むような 言葉でした。

 

僕には 納得のいかない言葉でした。

 

キリストは 神様に納得して 死んでいかなかったのか? 

 

それでは 幸せとは いえないのではないか。

 

興味を持った僕はその後 キリストの生涯を

 

書いた本を 捜しました。

 

聖書ではなく キリストについての本でした。

 

読むと キリストの叫んだ言葉を

 

「エロイ、エロイ、エマ、サバクタニ」

 

と 書いてあるものがありました。

 

この時僕は 、初めて 聖書で

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

を読んだ時 どうして どこかで読んだことがあると感じたか

 

答えが出ました。

 

僕は 次の呪文と 似ていると感じていたのです。

 

 「エロイムエッサイム エロイムエッサイム

 

我は求め訴えり!」です。

 

これは 水木しげる先生の 代表作の一つ

 

『悪魔くん』で 主人公が 悪魔を呼び出す時に使う

 

有名な呪文です。

 

きっと 水木しげる先生は イエスの 全身全霊、震えるような

 

真剣さを 表したかったのでは ないかと感じました。 

 

( ・・・・ああ~ 悪魔くん 読み直したくなったな~。

 

よく 覚えていないけど 僕を とても 不思議な

 

世界へ 連れて行ってくれたマンガでした。)

 

話戻します。

 

エリ(エロイ)は 上に存在するという意味で、

 

一般には『神様』を意味するのですが、

 

イエスが双子で 処刑されたのが 弟であるならば

 

エリ(エロイ)は 叫んでいる本人の上に存在する

 

『兄』を意味するとも 考えられるというのです。

 

すると イエスの絶叫は

 

「兄さん、兄さん、 どうして私を見捨てるんだぁ~! 

 

神の子なら 助けてくれ~」

 

とも 解釈できるというのです。

 

はりつけにされたのは 身代わりになった 弟だというわけです。

 

では その弟とは 誰か?

 

それは 十二使途の中の トマスという人物です。

 

そして そのトマスは  イエスの処刑の後

 

インドで 布教を開始しますが インドで 4人の兵士に 襲われ

 

 槍で突きさされて 死んでしまいます。

 

もし、トマスと入れ替わっていたとしたならば

 

イエスは インドで殺されたことになります。

 

しかし 入れ替わったとしたなら 聖書の中での

 

トマスは 我々がイメージするイエスとは かけ離れています。

 

わざと そうふるまったのかも しれませんが・・・

 

トマスは とても 疑い深く イエスが 最後の晩餐で

 

(この時点ですでに 入れ替わっていたのかな~)

 

「死んで蘇る」と言っても信じず

 

蘇ったと 他の弟子が話しても 

 

信じない弟子だったと書いてあります。

 

(もし、 入れ替わっていたとしたなら

 

それは 信じられませんね。身代わりになった

 

弟が蘇ったなんて言われても・・・・ )

 

そして8日後 再び トマスを含めた 弟子達の前に現れたイエスが

 

身体を触らせたことでやっと

 

「おお~ 我が師よ」 と 叫びます。

 

(入れ替わっていたなら おお~ 弟 すげぇ~ 我が弟

 

ワンダフル! ほんとに 奇跡を 起こした。 これも 神の御業か

 

と 感動しただろうな~ )

 

これに対してイエスに

 

「わたしを見たから信じたのか。

 

見ないで信じる人は、さいわいである」

 

と たしなめられます。

 

(入れ替わっていたならば・・・

 

弟にこう言われたことになります。

 

しっかりしてよ、兄さん 僕を 見たから

 

信じるなんて 兄さんらしくないよ)

 

さらに イエスの母マリアの魂が、

 

死後肉体に宿り(さすがです。

 

蘇ったのは イエスだけではなかったのです)

 

そのまま昇天していったと時も 

 

なぜか 一人だけその場にいないのです。

 

その後 再び現れたマリアが トマスに 信じさせるためにか

 

腰帯を解きながら昇天し トマスに与えた

 

・・・・だったような。すいませ~ん、うる覚え。

 

なぜ トマスは 大事な時 

 

いつも その場にいないのだろうと 疑問でした。 

 

不信仰のなす業なのかとも 思いもしました。

 

でも 一説には 

 

マリアが昇天する時駆けつけたのは

 

インドからかけつけたトマスだけで 

 

その時トマスが 受け取った腰帯を

 

他の弟子達が信じなかったといいます。

 

トマスがイエスの弟だとすれば インドから 駆けつけたトマスこそ

 

処刑の時 弟と入れ替わった 本物のイエスということになります。

 

さて、それはさておき、

 

当時の僕は 急いで 最後の晩餐の絵を 捜してみました。

 

イエスに 双子の 弟が いたならば

 

きっと そっくりに書いて あるのでは・・・

 

「いた! イエスの左にいる人物。

 

きっと これがトマスに違いない」

 

やや女性っぽく描かれているイエスに

 

似ているので そう思ったのです。 

 

ところが その人は ヨハネでした。

 

う~ん 違うのか?

 

さらに 調べると 最後の晩餐の場面の

 

聖書では イエスが愛する人(弟子)を 横に座らせると

 

書いてありました。

 

つまり ヨハネは イエスが最も愛する人間。

 

てことは 女? いやいや イエスの近くにいる

 

女性って マグダラのマリアだから・・・・

 

ん? ヨハネって 実はマリアで女?

 

それとも こんなこと言ったら 大変なことだけど

 

イエスは 同性愛者? なんて とんでもないこと 考えていました。

 

では 絵の中で トマスは どこにいたのか?

 

イエスの右で指を立てているのが トマスでした。

 

あまり似ていると 感じませんでした。

 

でも、あえて 完全なる横顔にして 指しか書かなかったのは

 

そっくりだというのを隠すため?

 

いや それにしても 似ていないな。

 

やっぱり ヨハネの方が似ているな。

 

その後 聖トマスの絵を 他に見つけて

 

あまりの禿おやじぶりに がっくり!

 

そう考えると 双子説は うそっぽいかな・・・・・。

 

イエスが トマスと 一卵性双生児であり

 

ユダの裏切りの時 すでに 入れ替わっていたならば

 

3日後、身体を持って 蘇ったことは

 

納得がいかなくはありません。

 

ただ 蘇りは トリックであり、 これが キリスト教の中の

 

トップシークレットだとしても イエスに そっくりな弟子が

 

一人いたとか どこかに ちょっと 書いてありそうなものですが

 

・・・・とひとまず決着。

 

でも 新約聖書がつくられる時

 

都合の悪い福音書は 皆 もやされたらしいですから

 

そろそろ どこかで そんな文献が出て来ても

 

おかしくはないですね。

 

ただ出て来ても 正統でないとか ああだこうだと 言われそうです。

 

でも 僕は 双子なので どうしても

 

もし そうだったらと 考えてしまいました。

 

双子だったとすると 兄を守るため ユダと手を組んで

 

イエスを捕まえに来た 警察にトマスを イエスだと 教えて 

 

わざと 捕まったことになります。

 

僕は 一卵性双生児で 弟 コウちゃんは 特別な 存在です。

 

弟が 自分の為に 死んでいくなんて

 

絶対に やって欲しくありません。

 

僕が イエスで コウちゃんが トマスだとしたら

 

耐えきれない話です。

 

処刑後の トマス(実はイエス)は 弟を 自分のせいで失った呵責を

 

抱えて 生きていったことになります。

 

嫌だな~ こんなの。 

 

やっぱり 素直に  はりつけにされたのは

 

イエス自身だったと 思うことにします。

 

ヨハネによる福音書では イエスは 叫び終わった後

 

母マリアと弟子達の前で 死んでいます。

 

死ぬ直前、母マリアには「弟子達は皆あなたの子供です」 

 

弟子達には 「我が母マリアは、おまえ達の母である 」

 

と 言い残します。

 

だから 弟子たちは その後 マリアの面倒をみます。 

 

そして 「私はかわく」といい、海綿に染み込ませた

 

ブドウ酒で口を湿らすと

 

「すべて 終った」と 言い 死んでいくのです。

 

・・・これは 自分の 予定していたことは 全部

 

やったという事を 意味しているのだと

 

僕は あえて 考えたい。

 

イエスそのままであれば

 

「 神様 私は なすべきことを 全うしました 」

 

入れ替わった 弟だとしたならば

 

「 神様 やっぱり 助かりたくて 神様に訴えてしまいました。

 

でも 兄さんを守れて 本望です。これで 兄さんは 蘇り 

 

民衆に 教えを 広めていくことが できるはずです。 僕の

 

役目は 終りました」

 

結局 キリストの最後からは 僕の考え

 

「命あるものは 死ぬ直前に

 

感謝して 死ぬことができれば

 

幸せなんじゃないだろうか?

 

どんなに 辛い人生であっても 

 

本人が 僕は よく頑張ったと

 

自分を ほめることができれば 幸せなのではないか」

 

に 納得のいく 答えは 見出せませんでした。

 

ただ、 今 のキリスト教どうしの 争いなどを見ると

 

20億人とも言える キリスト教信者の中に

 

どれだけ キリストの考えを 本当に意識しながら

 

生きている人がいるのだろうかと  首を傾げざるを得ません。

 

言葉は 正確ではありませんが イエスは こう言っていました。

 

イエス様、イエス様と言っていれば、

 

天国に入れるのではない。

 

神の心を持って行動している人が入れる。

 

幼子のように 自分を低くするものでなくては 

 

天国には 入れない。

 

世の中 権力を振りかざして、自分を高く見せたがっている人が

 

いかに多いでしょうか。

 

そして 口では いいことをいいながら

 

平気で 人を傷つけている人が いかに多いことか。 

 

さらに イエスは こうも言いました。

 

自分を愛するように 隣人を愛せよ

 

良く知られている この言葉こそ 神の御心です。

 

キリスト教信徒ではない僕ですが 

 

この教えは 人類が仲良くする 基本ルールだと 思います。

 

イエスは 自分の内なる声を しっかり聴き

 

当時の社会基準に とらわれることなく

 

己のやりたいことを 貫き通した人物だと思います。

 

だから やはり 満足して 幸福を得て 死んだのだと 

 

思います。 

 

幸せは 外にあるのではなく 内なる自分と向き合うことで

 

発見できると 教えてくれているのだと 感じます。

 

またまた まとまりのない 文章になってしまいました。

 

時間が来たので 終わりにします。

 

皆さま 良い お年を。 一年間 ありがとうございました。

  

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コメント: 1
  • #1

    カイママ (木曜日, 02 2月 2017 17:14)

    Kenさん。いつもお世話になっています。今日はBirthdayだと聞きました。おめでとうございます。素敵な1年になります様に… いつも前向きなアドバイスを頂き、ありがとうございます。